小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

いい加減な食の文化論を展開しない

この頃ちょっと理屈っぽいことばかり書いてるから、今日はユルユルにする。 中身もないけど、このくらいでちょうどいいだろう。 暑いしな。

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時々、自分の中の物欲番長が大暴れし始める。 今、大暴れしているのは、「マイ○ロソフトの Surface Pro 3 が欲しいぞ、この野郎!」 番長である。

「あれれ、サル的なヒトってマ○クロソフトが大嫌いじゃなかったっけ? あんたってもしかしてツンデレか?」 と思う読者もおられよう。 そのとおり、私はマイクロソフ○が大嫌いである。 国際倫理学のいかなる道徳規範をもってしても、○イクロソフトの国際戦略が正当化されるとは思わない。 しかし、Surface Pro 3 には罪は無い。 揺れる男心というやつ、理解して頂ければ幸いである。

ペンでタブレットに書き書きできるところが、サル的心をくすぐるんだよね。 クレヨンで線を描くのが楽しくて仕方がないちっちゃい子供と同じ。 モノリスから進化したサルだもの、仕方ない。

「入手してもう使っているよ」 という方がいたら、使い勝手を教えてください。

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我が家は基本的に質素である。 どのくらい質素かというと、日曜日の夕食の食前に、私と食べ盛りの息子に対して家人が 「炊いてあるご飯が足りない。 男衆一人につきお茶碗二杯分しか残ってないから、おかずに対する比率を調整して慎重に食べるように。 私はソーメンで済ますから」 と釘を刺すくらいの質素さである。 別に胸を張るほどのこともない。 世間によくある程度の質実剛健さだ。 

しかしそういう時に限って、おかずが辛子明太子とシジミの味噌汁だったりするのはどういうわけだろう。 「四の五の言わず、とにかく白いご飯を食いなさい」 というおかずぢゃあないか。 拷問である。 「・・・ どうする?」 と息子と顔を見合わせるが、どうしようもない。 限られた量のご飯を、じっくり、ゆっくり、味わいながら食べるしかない。 それが唯一の選択肢である。

ご飯を小さくお箸でとって、ちょっとずつモグモグする。 辛子明太子も少量ずつ。 ご飯を少量ずつモグモグ ・・・ を繰り返す。 仕方なかろう。 ご飯が足りないんだから。 

モグモグ ・・・ モグモグ ・・・

しかし、である。 そうやってゆっくりと、ちょびちょびとご飯を食べていると、不思議なことに、私も息子も一杯目でお腹がいっぱいになってしまったのですよ。 「ご飯はよく噛んで、ゆっくりと食べましょう」 とよく言われるが、あれって本当なのね。 サラリーマンのおっさん連中が尋常ならざる速度で昼飯を食べることへの驚きは以前にもブログに書いたが、まぁあれでは必然的に糖尿病になるわな。 戦後の欠食児童じゃないんだから、ご飯はもっとゆっくり食べるべきなのだろうな。

で、結果として、わずか一杯のご飯でお腹は満たされたわけである。 それって健康的でもある。 世界保健機構的には万々歳なのでしょうね。 ヘルシズム healthism を掲げたドイツの鉄血宰相ビスマルクもご満悦のことだろう。 ・・・ しかし、心がどこか空虚なのはなぜだろう。 一杯のメシを食べ終わった時点でお腹がいっぱいになってしまったことに気づいたときに、嬉しいんじゃなくて、むしろ悲しい気持ちになってしまった自分と息子。 「なんでお腹がいっぱいになってしまったんだよぉ、自分。 それで本当にいいのか、自分」 と自らを責める自分(笑)。 なんのこっちゃよくわからんのだが、でもこれって食の本質に迫った結構面白い状況である。 

簡単に言うと、お腹が満たされることと、食事から得られる満足は別なのですね。 これは金持ちにとっても、貧乏人にとっても同じだ。 また、食で健康になることも別の話。 人は健康になるためにメシを食っているわけではない。(注 1) わしゃわしゃと大量のメシをかき込むという行為自体が貧乏人にとっては幸せなわけである。 その幸せが奪われると、たとえ結果としてお腹がいっぱいになったとしても、悲しいのである。 人間って不可思議なり。

(注 1) どこかの料理人もテレビで 「私はお客さんを健康にするために料理をしてるんじゃあない」 と公言してたっけ。

満たされなかった想いを抱え、翌日、大学の近所のラーメン屋で背脂ギトギト系大盛りラーメンを食べたことは家人には内緒である。

有名人の若い頃の貧乏体験が生々しくつづられているこの本、面白いのでお勧め。 お米のありがたみがよくわかる。

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唐突に、何の前触れもなく口をついて出てくるフレーズがある。 「壁に這うみどりの蔦とナポリの絵」 ・・・ って何に出てくるんだったっけ? とここ数日ずっと考えていたのだ。 文明の利器 google さまにも頼らず、ぼんやりと考え続けてたら、思い出しましたよ。 太田裕美さんの 「ピッツアハウス 22時」 だった。

♪ 「変わったな」 そう言いかけて止めたのは
スプーンに映る僕も歪んで見えたから ・・・

♪ 哀しいね、ねぇ僕たちの未来って
いくつの過去を灰にしたなら見えるのか
君からの手紙の束も 今は無い
Lonely Night ピッツァハウス 22時

1978年のLPに入ってた曲だから、35年以上も前なのか。 読者の中には生まれてない方々もおられよう。 サル的なヒトたちの世代は、こんな宝物のようなフレーズを心の中で折に触れ呟きながら、人生を歩んできたのだった。 作詞はあの松本隆


(直接リンクできないので、一旦 youtube に飛んでからご覧ください。)

裕美さん。 めぼしい過去はもうあらかた灰にしてしまったのに、やっぱり未来は見えません。