小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

筋肉痛と秋

今年は秋がきちんとやって来て、ありがたいことである。 皆さんお元気ですか。

ブログの更新をちょっとサボっていたのである。 なぜかというと、筋肉痛でウーンウーンとうなっているからなのだ。 「東大本郷キャンパス? 上野公園のそば? ・・・ も、もしかして、デング熱?」 という心配は無用である。 研究室のビルの耐震工事が近々始まるため、引っ越し作業に追われているのだ。 何年間もほったらかしにしていた書類の山、本の山を片付け、段ボールに詰め、運びだし ・・・ という作業を黙々と。 紙 (本、書類) の重いこと、重いこと。 足腰が完全にヤバいことになっているわけである。 

というわけで、本日もブログにややこしいことを書く気力がないため、今回も思う存分、以前に書いた原稿を使い回すことにする。 というよりも、ちょっと宣伝。 10月3日、4日と大阪で小児臨床薬理学会 (第41回日本小児臨床薬理学会:子どもに必要な薬を見極めよう) があります。 サル的なヒトは、二日目(4日)の午前中にこんな感じの話をしますので、タイミングが合う方々はぜひどうぞ。 

小児と成人、世界と日本、実務と学問、現在と未来。 どのあたりに身と心を置こうか?

 職業や所属組織に○○というラベルを貼って、「○○の立場から」 を語るのが大好きな日本人だが、立場主義を振りかざして 「べき論」 を一席ぶってみても、役に立つことはほとんどない。 「小児科医の立場から」 「規制当局の立場から」 「製薬企業の立場から」 って、そもそも一体何だろう? 「患者の立場から」 というほぼ無敵の表現もよく見かけるが、こういった現状の立場主義は 「小野俊介の立場から」 というのと同じくらい意味不明である。 まずは議論の仕方を工夫することから始めよう。 あなたの本当に言いたいことは何? あなたの信じる 「善いこと」 ってどんなこと? あなたはどんな社会に住みたいの? これらを皆で共有するための語彙と伝達能力を持つ日本の医療人・産業人は実は少ない。

 医薬品開発や医学のアウトプットで見た世界の中での日本(人)の相対的な位置は低下し続けている。 グローバル企業は、国境なく、企業の存続を目的に動くのみ。 このような状況では 「この苦境をどうにかしなければ!」 と焦って叫びたくなるのが人情だが、焦ってもどうにもならないことの方が多いのだ。 例えば、たかだか1億人の日本人が、日本に住み、日本語を話し、経済的に豊かに、事もあろうにそこそこ健康に暮らしているという事実 (現在のグローバル新薬開発者や研究者にとって、これらはすべて致命的な短所になりうる) にイライラしてみたところで、 「あのね、製薬企業や医学研究者のためにこの世界があるわけじゃないのよ」 と良識ある一般人にたしなめられるだけである。

 一方で 「どうにかした方が良いこと」 は確実に存在する。 新薬開発・承認の規制の世界に放置されている大穴(真空状態)がその代表である。 有効性・安全性といった言葉が定義されぬまま薬が承認されていること、頻度論の根っこのランダムサンプリングを実施せず、母集団なる概念を事実上無視していることなどは、新薬開発を科学の営みと考えたい私(あなた)にとってとても恥ずかしいことである。 小児適用の問題がいつになっても片付かない理由の一つはむろんそこにある。 恐ろしいことに 「薬の製造販売の承認」 という行政行為の意味も共通理解無きまま放置されている。 最近のプロポフォール注の例で分かるとおり、薬のプロを自認する方々のほとんどが、「禁忌」 と称する欄が本当のところ何を意味するのかを、社会における規範・倫理・制度とのつながりを踏まえて胸を張って説明できない (私もできません。すみません。) という情けない有様である。

 グローバル資本主義が世界の市場を席巻し、コスモポリタニズムと多元主義の狭間で誰もが翻弄される現代。 お月様に手が届かないことを嘆くのではなく、すべてを時代のせいにするのでもなく、医薬品のプロとして解決すべきことを一つずつ解決していくよりほかに道はない。 お互いがんばりましょう。

学会長の石崎先生ご一家とは、ボストンで同じ学生宿舎に住んでいた古いお付き合いである。 両家の子供を連れてソリすべりに行ったり、皆でハロウィーンの仮装をしたり。 つい先日のように思い出される出来事が、もう20年も前のことなのだ。 時は流れる。

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岩手の田舎の友人からメールが届く。 K君、ありがとね。

うちの栗の木から落ちた栗の実です。先日、栗ご飯を炊いて食べました。
こちらはこんな状況です。

都会で暮らしているとまったく元気がでないのは、私の生まれ育った原風景がこういう優しい景色だからだ。 目を閉じると、実った稲穂の上を冴え冴えしく吹き過ぎる秋の風の薫りが思い出される。

都会で霞を食うネズミの、なんと薄ら寂しいこと。