小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

鑑真和尚に統計学を学ぶ

舛添先生を引きずり降ろした怒りの都民とやら (笑) とマスメディアが、次に、「日当という腐った不労所得をポケットに収めた公私混同サラリーマンを全員クビにするキャンペーン」 及び 「賄賂で勝ち取った東京オリンピックなんぞ直ちに止めろ!キャンペーン」 を始めてほしいと心から期待している今日この頃。 皆さんお元気?

「オリンピックなどという愚かなバカ騒ぎに金出す余裕は今の日本にはない。 日本に圧倒的に欠けている低−中所得者向けの公営賃貸住宅をどんどん作れ。 そうしないと若者も貧乏高齢者も死に場所すらなくなるよ」 と警告する方々がいるが、私もまったく同感。

でもやるんだよね、オリンピック。 みんな、ワーとかキャーとか大騒ぎして、瞳孔が開いた阿呆のような顔をしてニポン人選手を応援するんだよね。 その間だけは、社会保障崩壊寸前問題も、待機児童問題も、高齢者の孤独死の問題も、全部忘れたふりするんだよね。 すばらしい。 「国際共同開発バンザイ!」 と現実を忘れたふりして大騒ぎしているうちに、製薬業界でのニポン人の仕事が脳みそ不要の単なる雑用だけになってしまった現代史の闇をふと思い出したりする。

増税は先送り。 目先の選挙に勝つために、ま、とりあえず先送っとけ、ということね。 数十年後の勤労者の皆さん (我々の子供世代) は、ワシら高齢者世代を支えるために、稼ぎの8割を税金・社会保険料として供出しないといけないらしいね。 心身を削っての年寄り孝行、ありがたいことである。 「ニポン死ね」 の捨て台詞が街中にあふれかえる、そんな夢も希望もない時代が 確実に 来るわけだが、ま、先送っとけ。

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ところで、読者の皆さんは、高い専門性に裏付けられた高度な能力を駆使して日々仕事をしている医薬品業界人だから、アメリ統計学会が今年の3月に 「あんたらが大好きな頻度論のp値の使い方、だいたい間違えてるぞ。 あんたらの使い方ってほとんどが誤用ばっかりなんだから、有意性検定とか、もう止めた方がいいぞ」 という声明を出したことなど、全員、とっくに知ってるよね。 え? 知らない? ・・・ うーん、舛添先生のように自主的に給与返納した方がいいかも。

現在の薬効評価で使われている頻度論的な統計学の体系、特に仮説検定の体系って、昔から 「変なところだらけだよね」 と言われています。 そもそもが、その手の体系の創始者・ご本尊たるフィッシャー大先生と、その弟子のピアソン先生が、互いに 「お前の考え方は変だぞ」 と大ゲンカしてたんだから (大笑)、どのくらい変かは推して知るべしである。

分かり易いところでは、たとえば、「p=0.05 には何の意味もない」 ことは有名ですよね。 もし当時 「8.6秒バズーカー」 とかいうお笑いが流行っていたら、今頃は p=0.086 がいろんな決定の閾値になっていたかもね。 「無意味だからこそ p = 0.05 が生き延びる」 と逆説的に語る専門家もいるが、ダメじゃん、それ。

p 値が仮説(「お薬が40%効く」 とか) 自体の信頼性の確率と誤解されるのも有名な話。 でもニポンとかいう極東の不思議な国では、トクホ (特定保健用食品) とかいうよく分からない食品規制を市民に広めるのに、たぶん意図的に誤解をフル活用してるんだよね。 「p < 0.05ではなく、p < 0.1 ですから、これは条件付きトクホです」 ってヤツ。 「ちょっとビミョーなトクホなんですよ」 なーんてね。 ・・・ なんだよ、それ? 

トクホのお役所のHPには 「有意傾向があれば有効性の根拠にしていいじゃないか」 と堂々と書いてあるし、れぎゅらとりーさいえんすというよく分からないモノを専門にする大学のセンセも 「p < 0.1 とは有効性の科学的根拠が少し劣るということだが・・・」 と堂々と書いてあるが、これらはみんな隔靴掻痒的な説明で、ここに書いた表現だけでは到底正当化されるようなものではない。(注 1)

(注 1) どちらも、p 値を 「科学的根拠」 という大それたものに祭り上げ、食品の効果についてちゃんと 「科学的」 に考えるべきこと(効果のメカニズム、健康分配的な含意、リスクマネジメントなど) をすべて棚上げしてしまうという、恐ろしい手抜き説明である。 これこそまさに今回のアメリ統計学会の声明が 「おまえら、統計学を勝手に神格化して、誤用して、変な手抜きに使うんじゃねーよ」 としたこと。

また、p値を使って説明する限り、どんなに分かりやすく説明したとしても、その正当化を市民が理解できるようなものではない。 だから 「健康食品を有難がるパンピーはさ、何も考えないでいいから。 どうせ分かんないから。 誤解したままでいいから」 という構図なわけである。 ダメじゃん、それ。

企業の新薬開発がらみだと、「金かけて例数増やせば、効きが悪い薬も効いたように見せられる」 が一番愛されている p値の使い方である。 安全性でライバル品を蹴落とそうと思ったら、市販後にでかい例数の試験やって、無理矢理に有意差つければいいのですよね。 ガチでやりすぎて自社品が負けてしまったりして(笑)。 割付がうまく医師にばれるようにやってくれよな。

FDAやPMDAの新薬の審査で p < 0.05 が有効性の検証の錦の御旗になっているのは言うに及ばず。 ほぼ完全に脳死状態の審査官でも p <0.05 かどうかは区別がつくから、これほど楽チンな指標はない。 あまりに楽チンで、給料泥棒と言われてしまうおそれがあるため、引き換えに 「検出された差の臨床的意義を説明せよ」 という意味不明の照会事項を企業に出すのも、これまたニポンの当局の伝統芸能ですよね。 現実に存在しない確率人に臨床的な意義もクソもあるわけなかろうに。

今回のアメリ統計学会の声明は、こうした奇怪な現状に対しての、誠実な統計学者からの問題提起 である。 統計学者の中には、四の五のいわずに現行の社会のシステム (例: 新薬の承認審査のシステム) を支持して、現行のシステムでメシが食えていればよし、というヒトも多いのであろうから。

p値を誤解し、誤用している世間の人たちに、「無知蒙昧な非統計家たちよ。 お前らバカだなぁ。 p値を正しく理解しろよ。 統計学を勉強しろよ。 統計家を敬え!」 とこれまでのように高飛車な態度をとるのではなく、「p値・有意性の検定を広めて統計学マンセー者を増やした結果がこの思考停止社会だとすれば、それは統計学者の歴史的な大失態だぞ、おい。 正しい道を提案するのが科学者としての責任ある態度ではないか?」 という感じの反省が声明の端々に見え隠れしている。 とてもステキな大人の姿勢である。 失態・失敗から学ぶのが大人。 失態・失敗があると、責任者を引きずり下ろして快哉を叫ぶしか能がないニポン人にはとても真似できぬ姿勢である。

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統計学の根っこをそろそろ変えません? という今回のアメリカの学者からの提案。 背景には統計解析手法、コンピュータのソフト・ハードの能力の進化もあるわけだが、さて、これから世の中がどう変わるか、変わらぬか。 実は私にはまだ分からない。 ベイズ統計の教科書が急に売れるようになることだけは間違いなさそうだな。

ただし、ニポンとニポン人にこれから起きることは、サル的なヒトでも簡単に予想できるぞ。

まずは 「頭のいいアメリカ人の言うことを忠実に学ぶ」 のね。 ニポンの当局の人たちは 「進んだアメリカで起きること (例: 規制やガイドライン) を周回遅れで真似する」 のね。 今は ICH があるから、きっとこの統計の件はそのうち ICH のトピックの一つになって、ニポン人がアメリカ人と一緒にクリエイティブな議論をしているようなふりをするだろうが、実態はアメリカ人の賢い連中にシロウト軍団のニポン人がお勉強させてもらうだけなのは言うまでもない。

そうした動きの中で アメリカで起きたことを忠実に・素早くニポンに持ち帰って、さも自分のアイデアであるかのようにニポン人に広められるヒトが、ニポンの次世代の統計学・承認審査のオピニオンリーダーとしてもてはやされ、学会やシンポジウムに出ずっぱりになる」 のね。 いつもどおりの途上国パターン。

マッカーサー将軍様、ニポン人の社会年齢はあの頃と同じ12歳のままみたいですぜ。 というか、鑑真(688 - 763)の時代から何も変わっとらんな、ニポン(笑)。(注 2)

(注 2) だけどね、私は、「このままではニポン・ニポン人が生き残れない!」 などとくだらないビジネスコンサルタントのようなことを主張するつもりも毛頭ないので誤解しないでね。 軽薄で役に立たないよね、その手のコンサル系のニポン人論は。 むしろ、こんな珍妙な (笑) ニポン人が興味深い社会を作って、何千年も世界の重要な一角を占めているという歴史的事実を重んじ、面白いなぁと思うのだ。