小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

薬機法の大穴にクビを突っ込まない

東大の本郷キャンパスには由緒正しい柔・剣道場がある。 名を七徳堂という。 私のオフィスがある薬学部から生協食堂に行く途中にあるので、時々、怖い顔をした屋根瓦とにらめっこしたりする。

今日のお昼は、見るからに観光客風の若い外人のカップルさん (ドイツ語を話してたので、ドイツ人と勝手に認定する) が中で行われている剣道の練習を不思議そうに覗きこんでいた。 「キーッ、キエーッ!」 「テヤーーッ!」 といった甲高い奇声が飛び交うのを見て、目が点になっておるよ。 ふふふ、かわゆいのぉ、こいつら。

ここは国際親善せねば、と思った国際派のサル的なヒト。 覗いてはいけない人間の深淵を見てしまったかのような顔をしてるドイツ人に近づき、おもむろに解説してあげましたよ。 ここはニンジャの修行場であると。 ちゃんと納得してたから安心してくれ。

外人ってホント忍者が好きである。 そういえば何年か前に、渋谷を深夜に歩いていたら、文化村通りを完璧な忍者姿の外人さんがニンジャ走りしていたことがあったっけ。

あ、そうだ、忍者といえば、最近こんな素晴らしい忍者本を見つけたので紹介しておく。 舞台はP県。 そう、あの懐かしいプリプリ県である。 分かる人には分かる。 おススメです。  

忍風! 肉とめし (1) (ビッグコミックススペシャル)

忍風! 肉とめし (1) (ビッグコミックススペシャル)

 

 

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科学論を相変わらずお勉強中なのである。 まともな科学哲学の教科書を読むためには分析哲学・論理学が必要になってくるのだが、その分析哲学・論理学がとてつもなく広く深い学問領域なので、何十年学んでも学問の外壁を2ミリくらいかじった気分にしかならないのね。 この先ずっと格闘しても、結局何もかもが分からなくて、どこかで諦めて、あの世に行くことになるのだろう。 が、こっちは最初から敗れて悔いなしの覚悟で勉強してるのだから、それで一向に構わないのだ。

先日、駒場で 「薬が効く」 について講義したのである。 正確には 「薬が効くって、何を言ってるんだか意味が分かんないよね」 という講義。 たとえばこんなスライドが問題提起としては分かりやすい。

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皆さん、どうですか? この海辺に落ちているアスピリン錠って効くと思う? 「湿気 (しけ) ってるから効かない」 などと言ってるそこの業界人、廊下に立ってなさい。

ちょっと考えてみたらすぐ気づくのだが、「薬が効く」 の意味をまともに構築するためには、誰かが対象として存在していないといけないのよね。 フツーは患者かな。 はい、それを存在措定 (の問題) といいます。

存在措定がないと、あちこちで困ったことが起きてしまう。 たとえば 「すべてのヒトに『薬を飲ませたならば効く』」という前提から、「薬を飲んで効く人が少なくとも一人は存在する」 が論証できないのである。 それでは困るのだが、論理って空気読まないから仕方ないのだ。

医薬品規制や新薬開発ガイドラインが純粋な演繹論理に従うべき、などと頭のネジが飛んだ主張する気はまったくない。 が、現実に我々がやっている薬効評価のレベルで 「薬が効く」 を議論する場合であっても 「(誰が) 誰を想定しているのか?」 は当然あらかじめ明確にしておくべき前提である。 なのに、そこら辺が無茶苦茶なのね。 ガイドラインを作っている方々に 「あなたたちが議論している世界にそもそも患者が存在しているの?」 「存在してるとして、それは一体誰なの? 固有名詞の誰か? それとも普通名詞の誰か?」 といった質問をしてみるとよかろう。 たぶんそうした方々には、これらの質問の意図が伝わらないだろうな(笑)。 そういう状況。

お役人も含め、ここらあたりをなーんにも考えていないことが一番よく分かるのは、ほれ、薬事規制のご本尊、薬機法ですね。 薬機法の中には、一語たりとも、「薬が効く」 が論理的に想定している対象が誰なのかが書いてないのよ。 驚くべきことに。

薬が効いたり、副作用で死にかけたりする対象として想定しているのが、現にそのあたりにいる誰かなのか、それともふわふわとした (分析哲学にいう) 可能世界のヒトなのか。 名前が付いた誰か(例:日本国内に居住する星一徹さん)なのか、それとも地球のどこかにいる普通名詞の 「ヒト」 なのか。 あるいは、日本人なのか、アメリカ人なのか、コスモポリタンの誰かなのか。 まったく分からん。

ちなみに最後の 「日本人か、アメリカ人か」 問題は、ふわふわした哲学の問題というよりはむしろ現実の行政行為 (例:お薬の承認) と直結したリアルな大問題なのだが、お役所は何十年間も知らん顔をしたままである。 というか、グローバル産業界の言うなり。 「アメリカに住むジェームズさんとクリスさんにしか効かない薬があったとして、それを日本で承認するの?」 という問題に対する 「論理的な」 答えが、今の薬機法にはないのである。 それって無茶苦茶だとは思いませんか? もっと正確にいうと、答えどころか、議論をするタテツケすら存在していない惨状。 そんな状況だから、パブリックヘルスの視点を持ち込む以前に、グローバル医薬品産業のやりたい放題になるわな。

「母集団なんてどーでもいいのよ。 薬が効きそうな患者をテキトーにその辺から集めてくればオケーなのよ」 という製薬企業の新薬開発方針が過去数百年にわたって黙認されていることの背景もそれである。

というわけで、薬機法 (海外の同様の法律を含む) って論理的な大穴が開いたザル法 であることを皆さんも知っておくと、いざ自分の命がかかった状況になったときに少しは役に立つかもしれん。 いや、まったく役に立たんか(笑)。

・・・ などという講義をしたのであった。 情報・データサイエンスの先生方も同席していたのだが、さすがにその手の先生方はプロ。 私が気にしている論点を即座に理解してくださり、存在措定 (あるいは議論のドメイン) に関する自然言語でのアプローチ (とその限界) を楽しく議論させてもらったのであった。 あー、楽しかった。