小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

外に出て人の匂いを嗅ごう。ニャンコとも話そう

いやー、久しぶり。 皆さんお元気?

なんとも奇妙な数か月でしたね。 長いこと生きてるといろんな経験をするもんだ。 でもね、なんだかんだ言っていても、人間は置かれた環境に自然に慣れる。 電車で一人おきに座るのも、学食で斜めに座るのも、Zoomでセミナーや講義をするのも、慣れてしまえばどうってことない。 同じマスクを20日間くらい使い続けることにももうすっかり慣れて、まったく違和感がなくなったよ。 単にマスクが臭くなって、ネバネバ感が出るだけのこと。 ちょっと前のブログ記事で大騒ぎしたのがバカみたい。 ふふふ。

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前の記事との間があき過ぎて、何を書くかが結構難しい。 「生協食堂で一定の間隔に座った大学のセンセーたちが黙々とメシを食っている光景って、刑務所の中の光景に似てる」 とか、「雨後の筍のようにあちこちにできたタピオカ屋が壮絶につぶれたなぁ」 とか、コロナ時代ならではの感慨は山ほどあるのだが、どれも小粒で力説するほどのものではないし。 

あ、そうだ。

こんな状況下でも無料出張講義はやっているのである。 ただし 「出張」 というところがビミョー。 Zoom を使って大学や自宅から講義しているのだから、正確には出張してないのだ。 これでは単なる 「無料講義」 ではないか。 それってなんかちょっと悔しい気がする。 理由は分からんのだが。

私の場合、ざっくり言って、Zoom での講義ではフツーの講義の4割くらいしか力がでない感じである。 受講生の皆さん、ごめんね。 聞き手の顔色、目の輝き(逆に言うと 「目の死に方」) を見ながら、話す内容の量・質、速度を変えるくらいのことは、まともな大学のセンセーなら誰でもやっているのだが、それができないのは致命的である。 話しっぱなしで講義が終わるのはとても腹立たしい。

「いや、小野さん、Zoom にせよ何にせよ、最近のオンライン会議ソフトはチャットで質問できたり、挙手ができたり、いろいろフィードバックが得られるはずでしょ? 知らないの?」 とか、「むしろオンラインを使用している現状を新たなチャンスととらえるべきでしょ」 とか言い始めたオンラインマンセーの方々がたくさんいることは知っている。 申し訳ないが、私はそういった意見にはまったく賛同しないし、与しない。 オンライン講義は、フツーの講義より劣ったダメな講義である。 まずはそれを認めましょう。 

相手の表情・顔色 (目、顔、姿勢)、発する雑音(ため息や歯ぎしりを含む)、体臭(息の臭い、腋の臭い、足の臭いを含む)を感じ、それに応じた話をしないと、講義・人間の語りって劣化し、薄っぺらくなるのよ。 私の経験である。 講義中になぜかニャンコが入ってきたら (早稲田キャンパスには実際そういうニャンコがいたらしい)、ニャンコとも空間を共有し、対話する。 それが講義。

それって常識だよね。 落語を寄席で聞くのと、テレビで見る・録音をCDで聞くのとでは、感動のレベルがまったく違うでしょ。 寄席で客がくしゃみをすれば落語家はそれに応えることができる。 怒ったり、笑いのネタにしたり。 時空を共有する喜びはその時空間にしか生まれない。 電波を通じた語りはもはや似て非なるものなのよ。 劣化して薄っぺらくなった講義・語り自体に、付録やおまけをいくらつけたってダメである。 サイコーの感動はそこには無い。

ちょっと想像してみてほしい。 もし、おまけつきのグリコのキャラメルの、キャラメルそのものが美味しくなかったらどうよ? ダメだろ、それ? ・・・ たとえが分かりにくい? じゃあさ、もし、プロ野球選手カードのおまけが売りのカルビープロ野球チップスで、ポテトチップスそのものがフツーのチップスだったらどうよ? ・・・ ん? それでいい気がするな。 なに? 「カードが清原だったら、今なら妙なプレミアがついておいしいっすよ、逆に」 だって? オレはそういう話をしてるんじゃないんだよ! 「逆に」 っていう言葉の使い方も変なんだよ、近頃の若いもんは。 ムッキー!

まぁいい。 つまりはそういうことだから。 小野センセーの言ったこと、よく復習しておきなさい。 期末試験に出すよ。

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(200623追記)

・・・ とここまで書いて、私の本意は例によって皆さんにはまったく伝わっていないのだろうなぁと思うので、追記しておこう。 みっともないけど。

私が言いたいのは、「従来のビジネススタイルのどこが・誰が問題だったのかをきちんと反省もせずに、なんとなくリモートマンセー派やオンラインマンセー派に宗旨替えすんなよ」 ってこと。 そういうことをしてると、過去の政策の失態・失敗の評価から逃亡し、すべて水に流して、『治験推進〇カ年計画』 だの 『バイオ推進○○戦略』 だのといった新しく見えるだけの政策を無反省に、永遠に提案し続けるニポン政府と同じになっちゃう。 政策が機能しなくても政府はそう簡単には倒産しないから、今のところ単にニポンが三流国に転落しただけですんでるけど (笑)、会社は失敗したらつぶれるし、社員はクビになるよ。 日本支社は外人につぶされるよ。

会社員だったら、オフィスで皆が働いていたことの意義・意味をきちんと考えてみようよ。 創造、知恵、ノウハウ、勇気、やる気、忍耐、革新 ・・・ そういったものがこれまでの会社の環境でどのように生まれていたかをきちんと考えてみること。

「いや、私の所属する製薬会社では社員は単なる assembly-line worker なので、創造も忍耐もしてないです。 リモートは快適です」 というのならそれはそれで結構。 ただし労働組合の連絡先を調べておくことはおすすめします。

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映画を映画館で見ることができない地獄のような日々。 TSUTAYA すら閉まっていて、ホント、泣きたいような日々だったが、ようやく元に戻ったぞ。 ヒャッホー!

クリント・イーストウッド監督の 「リチャード・ジュエル」。


映画『リチャード・ジュエル』30秒予告 2020年1月17日(金)公開

素晴らしいのは見る前から分かっていたが、やっぱり素晴らしい。 お上なるものを素朴に信頼していた善良な一市民が、性根が腐った役人とメディアに人殺し扱いされ、家族ともどもボコボコにされるお話。 でも安心して。 これはイーストウッドじいさんの映画だから。 そこには正義が必ず存在するから。 悪い奴らはクソ食らうことになるから(笑)。

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イライラすることが多いご時勢、本も盛大に読み漁っているのである。 全部をおすすめするわけにもいかないので、読みやすい新刊を何冊か。

 村上春樹さんが息子として父を語る。 読後の味わいがとても深い。

 

とても分かりやすく書かれた文化人類学の紹介。 というか、最後の方の悲しい結末は、そうした学問の垣根を超えて、「この地球に生まれた人間って何なんだ?」 としみじみ考えたくなると思います。 原住民の暮らしぶりは、ややこしいこと抜きに単純に面白いよ。 現地の人たちのラブレター事情とか。

 

「あぁ、博士号が欲しい! PhDが欲しい!」 病に冒されている (あるいは冒されたことのある) 人たちはこれを読むべし。 読んでいるうちにきっと胸が痛くなって、息ができなくなる。 いや、無茶苦茶面白いのだけど、面白さの裏にある息苦しさが半端ない。  あ、これ、フランス人が描いたマンガです。

もっとも今のニポン人はビョーキだから、この本を読んでもまったく共感しない連中がたくさんいるはずである。 昔からよく知られているのは、「医学博士なんて足の裏についた米粒だ (取らないと気持ち悪いが、取ったところで食えない)」 などとうそぶくお医者さんたち。 最近では、博士号を大学に天下るための肩書の一つとしか思っていないお役人とか。

博論日記

博論日記

 

ちなみに私は、登場する指導教員のセンセーの心のつぶやきに爆笑。 どの箇所で爆笑したのかをはっきり書くとちょっとシャレにならないので内緒です。

 

やっぱり最後はこれだな。 2020年、私のコロナ禍はこのマンガとともにあったといっても過言ではない。 ありがとう、竈門炭治郎(かまど たんじろう)。  

鬼滅の刃 20 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 20 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

第20巻で倒された上弦の鬼、黒死牟(こくしぼう)。 彼が死ぬ間際に心に思い浮かべた人生の述懐があまりに深すぎて、涙が止まらない。 これ、ホントに子供のマンガなのか? 

黒死牟には縁壱 (よりいち) という剣の天才の双子の弟がいた。 弟の才を羨み、妬み、最後は人間であることを捨て、鬼になった。 それでも縁壱には勝てなかった。 天賦の才など持ちえない凡人が道を究めんとすると、鬼になるしかない。 人を喰らって強くなる鬼。 しかし鬼は最期は天によって滅せられる。 後には何一つ残らない 。

何故私は何も残せない?

何故私は何者にもなれない?

何故私とお前はこれほど違う?

私は一体何のために生まれてきたのだ

教えてくれ 縁壱 ・・・

 第二不完全性定理だの、レープの定理だのを何度読んでも理解できない凡人であるサル的なヒトは、炭治郎たち正義の鬼殺隊よりもむしろ、鬼の哀れさに深く、深く同情してしまう。 こういう読者がこの漫画を絶賛してるのだろうなぁ。

でもな、鬼を退治する炭治郎はとてもいい子だから好きだぞ。 やたらと身体が強いけど頭がちょっと弱い恋の呼吸の柱の女の子も、おぢさんは応援しているぞ。