小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

「問い」の知的レベル

暖かくなってきましたね。 沈丁花の香りが路地に漂う季節。 私はあの香りが大好きだから幸せだが、散歩中のワンコにとってはきつ過ぎてたまらんだろうなぁ、などと思いながらランニングをする日々。

で、皆さんはお元気ですか?

 

ところでサル的なヒト、何を血迷ったか突然 twitter を始めたのである。 「過去の記事で 「140 字しか書けないバカ人になってしまう」 などと (笑) あれほど毛嫌いしてたのになぜ?」 と不審に思われる読者もおられようが、モノは試しというやつだ。 君子も豹変するのだから、サルがツイ廃になったって不思議ではあるまい。

今、フォロワー数は0名。 堂々としたものである。 このブログについては、業界人の多くがこっそり暇つぶしに読んでることはこっちは分かっているのだが、twitter のフォロワーになるとそれが世間様に公表されることになる。 「あんな危険なバカに感化されるな」 と、私のことを毛嫌いしている腐れオヤジ連中から吹き込まれている方々は、無理してフォロワーになることはありません。 あいつら、陰湿に意地悪してくるからな。 気が向いたときに覗いてくれればオケー。 あ、匿名のアカウントなら身バレしないのか。

いずれにせよ、うまく気分転換の材料に使ってください。 よろしくね。

 

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大学院に入学したのはいいけど、「研究っていったい何をすればいいの?」 と途方にくれる方々が実はたくさんいる。 製薬企業のベテラン社員であれ、若い学生であれ、「学位をとりたい!」 と意気込んで大学に入ったものの、いざ研究を始めると、ほとんどすべての学生がまずは途方にくれるのである。

たとえば統計学的な分析手法 (ソフトウェアの使い方など) が分からない、といったことは悩みのうちに入らない。 きちんと勉強すればよろしい。 「論文を英語で書いたことがない。 投稿したことがない」 といった不安も、単に一度経験すればいいだけのこと。 翻訳業者に大金払えば、お金でも解決もできる。

困ったことに、今の学生さんってそんな些末なことばかり悩むのである。 そんなことよりも、ずっと大きな問題をあなたは抱えているのに、それには気づかないのよね。 ずっと大きな問題、それは 「研究って何だ?」 を一度も考えたことがないことである。

「研究とは何か?」「学問とは何をするものか?」に対する答え方の流儀はたくさんあるが、私が最も好きな答えは 「研究・学問とは 『問い』 を考えること・創ること というものである。 「人類が『分からないこと』 を見つけていく」 という言い方をする人もいる(「分からないことを解決していく」 ではないことに注意)。

これって学問の意義についての結構スタンダードな解釈なのだが、学生さんにはこの解釈の大切さ・味わいがなかなか伝わらない。 大学の教員にも 「学問とは何か」 を自問自答したことすらない連中がゴロゴロいるご時世だから、学生を笑えないのだけど。

 

最近の学会や研究発表会に参加すると、「問い」のない研究発表がやたらと目につき、げんなりする。

「流行りの領域(レセプトだの、薬剤使用だの、患者アンケートだの) のデータをいじってたら、なんか相関が見つかりました。 見つかったんだから、なんか意味があるんでしょうね。 以上」 みたいな研究。

あるいは 「XがYに及ぼす影響」 なんてタイトルを付けているのに、X→Yの因果関係なんて全く探ってない研究。 この手のタイトルの研究には、自分のやっていることをまったく理解していない 「研究もどき」 も多い。

困ったことに、世界のアカデミアで一般常識の因果推論の基本をまったく勉強してない学生が、薬学部にはゴロゴロいるのである。 過去数百年(正確には数千年)の人類の知恵として体系化された因果推論の哲学に畏 (おそ) れを抱くこともなく、また、今やありとあらゆる学問で使われる因果推論の方法論を勉強してないなんて、私にはちょっと信じられないのだが。

そんな 「研究もどき」 が蔓延する背景には、統計ソフトを使うと、脳みそがない学生でも傾向スコア(propensity score)とかを計算できてしまう状況がある (これも周知の事実)。 意味が分からずとも 「結果もどき」 だけは出てしまう倒錯を恥じているうちはいいのだが、多くの学生はいつの間にかそういう状況に慣れっこになって、「ソフトを使えることが分析モデルを理解していること」 と勘違いするのである。

さらにもう一つ、大学教員の言語能力が相当に落ちている気がする。 研究の技術的な詳細 (分析方法など) は大学教員はむろん理解できる(はず)だが、研究の意味・意義を過不足なく、適切に日本語で表現する力がどうも怪しい。 ざっくり言うと、日本語が不自由な大学教員が増えている。 

たとえば、学生が 「XがYに与える影響」 ではなく、何か斜め 45度のようなこと (たとえば別種の相関) を論文に書いているのに気付いたら、教員は 「君の論文、日本語が変だよ。 修正して」 と当然に指導しないといけないのだが、それができない教員、あるいは無頓着な教員がいて、妙な記載を放置してやがる。 これってダメである。

 

で、結局、研究の 「問い」 に戻る。

これまでの経験から、この手のダメダメ学生及びダメダメ教員は、自分たちが研究で問うていることを、日本語で正しく書こうとしたことが人生の中で一度もないのではなかろうか、と思うのだ。 そして、自らの研究の 「問い」 を明文化したことがないのは、そもそもそれを表現するための様々な能力、特に言語能力 (語彙、文法) が無いからではないか、と疑っているのだ。

「ややこしい分析やってるんだから、『問い』 が書けないわけないじゃないか」 と思うのはシロウトである。 断言するが、ややこしい分析はバカでもアホでもできるのよ。 公文式で小学生がドリルを解けるのと同じ。 研究の本質は、そして難しいのは、素晴らしい問いを創ることなのである。 それって数学などでは常識だが、社会科学だって同じなのだ。

「問い」 を書かせると、その人の学問レベル、というか知的レベルが露わになる。

私の研究領域だと、たとえば当局通知や ICH ガイドラインに詳しいだけの単なる物知りや、企業でグローバル開発・当局で承認審査に携わっているだけの人 (そうした実務が種々の原理や規範で支えられていることに気付けぬ人) は、所詮そのレベルの薄っぺらい問いしか書けません。

厚生経済学の第一・第二定理を知らん人は、効率 (たとえば費用対効果) に関するまともな問いは書けません。 ゲーム理論の均衡概念がない人は、PMDA と企業の交渉を抽象化した学問的な問いにできません。 倫理の知識がない人は、自分の問いに、せいぜいが出来損ないの功利主義でしか正当性を与えることができません。

因果論の深みを知らぬ人は、まともな 「問い」 がそもそも書けないのは上述のとおり。 言語哲学の深みを味わったことがない人は、自分自身が言葉で表した 「問い」 が世界の姿とどう対応しているのか (前期ヴィトゲンシュタインね) といったことを楽しく思い悩むことなど決してないと思います。 

その人が創ることができる 「問い」 のレベルが知的レベルを表すのは、学生だろうと教員だろうと同じである。 ほれ、学生をエラソーに指導してるそこのセンセー。 あなたも研究者なら、自分自身の研究の 「問い」 を日本語で書いてみるとよかろう。 で、書けた 「問い」 を私に送ってくれれば、センセーの知的レベルを 「最底辺の私よりはマシ」 か 「最底辺の私よりひどい」 の2段階で評価してあげるぞ (笑)。(注) 遠慮すんな。

(注) 自分を卑下した冗談などではない。 私の知恵のレベルなど最底辺である。 マジで。 海外のすごい学者と対話をすればそれがすぐに分かる。

 

学生さんは、自分ならではの 「問い」 を生み出せるよう、頑張って勉強してください。 深遠で、豊穣で、ふくよかで、楽しくて、斬新で、とんがった 「問い」 を期待してますよ。 大学内の勢力争いや、学会での出世や、メディアへの露出や、政府審議会のポストや、老後の天下りのことばかり気にしている教員連中がつくる、偏狭で手垢のついた 「問い」 を笑い飛ばしてやれ。 頑張れ、学生さん。

 

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統計の大先生フィッシャーさんは、ランダム化という人類史上一、二を争う大発明をしたときに、こう認識したそうである。

... An uncertain answer to the right question is much better than a highly certain answer to the wrong question. 

正しい 「問い」 に対する不確実な答えの方が、間違った 「問い」 に対する確実な答えよりずっとマシである。

 (Judea Pearl & Dana Mackenzie. 'The Book of Why' より)

 

ね、頻度論のご本尊の言ってることと今日の私の記事の趣旨、違う文脈なのに見事にマッチしてるでしょ? 自画自賛

ちなみに最近、「ビッグデータを使えば、そこから (モデルに依存せず) 分析結果が何か出るのだから、それでいいだろ? 『問い』 とか、因果モデルとか、そんな面倒くさいものは統計学の分析には要らないのよ」 的なことを言うバカデータサイエンティストが多いらしいのだが、パール先生は、そうした連中を同書 ('The Book of Why') で徹底的に皮肉ってます。 この本、面白いからおすすめだよ。

 

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じゃまたね。 今日の記事も理屈っぽくてすみません。

「葬送のフリーレン」。 多くの人たちがもう読んだとは思いますが、未読ならばぜひ。 サイコーです。 子供は子供の感覚で、大人(私のようなジジイ)は大人の感覚で、このマンガの素晴らしさが分かりますよ。