小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

「有効性に関する小野の定義」を活用しよう

爪切りが壊れてしまったのである。 ヘンケルのシンプルな爪切り。 ずいぶん長いこと使っていたような気がする。 一体いつから使ってたのだっけ?  と記憶をたどると ・・・ 思い出したぞ。 通産省の宇宙産業課というところで働いていたときに、Y崎課長からもらったのだった。 確か、SFU(Space Flyer Unit) という回収型実験衛星プロジェクトの交渉でドイツに出張したY崎課長が課員全員に買ってきてくれたお土産。 1992年頃だから、30年も前のことなのか。 ああ、なんと懐かしい! 

若い人たちからすると 30年前って大昔だよね。 訳が分かんないくらい大昔。 「まだ生まれてなかったぞ」 なんて人にとっては、白亜紀縄文時代も30年前も同じだったりして。 でも私たちおっさん・おばさんからすると、30年前ってほんの少し前の過去なのである。 困ったことに。

厚生省からの出向者として通産省で過ごした30年前の2年間は今でも鮮明な記憶である。 だって楽しかったんだもの。 真夜中に議員会館に忍び込んで資料配ったこと。 種子島のロケット打ち上げを見物視察に行ったこと。 NASAの研究者と打ち合わせをしたこと、その時泊まったホテルで朝食に頼んだパンケーキがやたらと大きくて食べ残したこと。 文部省、科学技術庁と縄張り争いの喧嘩ばかりしてたこと (笑)。 三菱電機とか富士通とか、それまでまったくお付き合いのなかった会社のおじさんたちと一緒に仕事をさせてもらったこと。 子供の誕生祝に巨大な 「梅吉くん」 をもらったこと。

あ、通産省っていろんな裏のカネ(予算)を持っている。 その流れは複雑怪奇で、外部のヒトにはよく分からない(というか、分からないようにしてある(笑))のである。 そこで当時からリベラルで情報公開マインドに溢れた理想的な役人だったサル的なヒトは、その秘密のお金の流れを独自に分析し、わかりやすーく図にして、正々堂々と課内の壁に貼ってやったのだ。 もし厚生省内でそんなことやったら、上司からぶん殴られてすぐ左遷されること間違いなし(実際、厚労省に戻ってそれに近いことをやったら、ケツの穴の小さい当時の上司のジジイにぶん殴られた)。 だけどそこは(昔の)通産省懐(ふところ)が深いのである。 Y課長も、壁に貼ってある秘密のお金の流れ図を見て、ニヤニヤして面白がってる。 「ここの流れと金額がちょっと違うなぁ」 などと図を修正してくれたりして。 他の上司もそう。 そのうちに、壁に貼ってある私の図を見ながら、課員がお金の流れを確認するという雰囲気になった。 そういう雰囲気だったから、私は(当時の)通産省が大好きだった。 自分の働く職場が好きだったのは、後にも先にも (現在も含む) あのときだけだったと断言できる。

 

・・・ 書こうと思えばさらに500個くらいの思い出が書けるが、とりあえずこのくらいにしておこう。 壊れたヘンケルの爪切りを眺めながら、過ぎ去った若き日を振り返るサル的なヒト。

 

*****

 

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」 のおかげで辛い毎日を送っているのである。

まず、朝メシを食べながらドラマを見て、泣く。 お昼、生協で昼メシを食いながら、明日放送予定のあらすじを見て、泣く。 夜、帰宅途中の地下鉄の車内で、これまでの辛いシーンを思い出して、泣く。 きっちり一日三回泣いておる。 57歳のおぢさんが毎日毎日嗚咽しておる。 NHKの連中の思うつぼの状況。 もし今、NHKの連中から 「あんこちゃんを幸せにしてやるから、その代わり受信料3倍払ってくれる?」 って尋ねられたら、「よ、喜んで!」 と居酒屋の店員なみに答えかねない勢いなのである。

一日三回泣いているのは自分だけかと思ったら、ある知人のおばちゃんも 「朝泣いて、お昼に再放送で泣いて、夕方帰宅した子供に本日のストーリーを説明しながら泣く」 らしい。 お仲間である。 一方、うちの研究室の秘書のおねいさんの一人はまったく涙は出ないとのこと。 涙腺のゆるさには個人差があるのだ。 読者の皆さんはどうかしら。

 

*****

 

前回のブログに書いとおり、都内で医療改革のシンポがあったのだが、例によって全方位を不愉快にしてきたサル的なヒト。 「お医者さんだから副作用の因果関係が証明できるって、あんた、アホか? ヒューム先生があの世でびっくりしてるぞ」 などと、エラい医者連中を前にして好き勝手を述べてきたのだが、それはさておき、医薬品評価に関して一つ重大な提案をしてきたのである。

 

それは、

(有効性に関する小野の弱定義)

「薬A の有効性が示された・検証された」

という文が出てきたら、必ずそれらを

「(薬A を飲んで) 治った患者がたまたま存在した」

という文に言い換えることができる。

 

この言い換えはどこからどうみても正しいでしょ?(必要条件による言い換えです。)

ホントはもう一つ別の有効性の定義もある。 こっちの方が業界人が現にやっているえげつない新薬開発の実相を反映してる。

 

(有効性に関する小野の強定義)

「薬A の有効性が示された・検証された」

という文が出てきたら、必ずそれらを

「(薬A を飲んで) 治った患者を企業がたまたま(でも必死になって(笑))見つけだすことができた」

という文に言い換えることができる。

 

(注) 「たまたま治った患者が存在する」 ではなく、「治った患者がたまたま存在する」 と表現するのが、一般人の直観的な理解を楽にするためのこの定義(言い換え)の工夫である。 因果論の世界から意図的に距離を置く。 哲学的にいうと、あえて (評判の悪い) 論理実証主義に戻ってみる感じ。 あとね、本稿では、製薬企業の皆さんが「母集団からのランダムサンプリング」なんてことを歴史上一ミリもやっていないという厳然たる事実を前提にしています

 

なんと、こう言い換えるだけで(どちらの定義を使ってもよい)、現在の医薬品評価を覆っている嘘や神事のほとんどは除去されるのよ。 驚くべきことに。

たとえば業界人 (産官学みんな)って「イベルメクチンやアビガンの有効性は臨床試験の結果を見るまでは分からない。 落ち着いて」 なんて言うでしょ? (私も新聞記者にちゃんと説明するのが面倒くさいときはそんな言い方をすることがあります。) でもそういう表現って実は変だよね。 どこが変なのかをかみ砕いていうと

臨床試験で有効性が一度検証されたら、イベルメクチンというモノは未来永劫ずっと有効なもの扱いされ、『有効性』 という永世資格を持っているものであるかのように扱われる」

ことが前提であるかのような物言いになっているところである。 臨床試験の結果が出た後、イベルメクチン(というモノ)が 「エヘン! いいかね、みんな。 臨床試験で有効性が示されたのだから、おいらのことを今後はずっと『有効な薬』 と呼びなさい」 と言ってる感じ。

ね、これって明らかに変でしょ? お薬(モノ)を威張らせてどうすんのよ。 その薬飲んで治らない人なんて山ほどいるのに、お薬に「オレは『有効性認定』されてんだ。 文句あっか?」 なんて勝手に言わせていいわけないよね。

 

「薬A は臨床試験で有効性が示された」 を 「薬A を飲ませたら、治った患者がたまたま存在した」 と言い換えると、上述の誤った、明らかにミスリーディングなニュアンスは見事に消えます。 つまり、

  • そのお薬が検証的な試験で「効く薬」 認定を受けたという事実は、しょせん 「あ、治った人が、ある時、ある場所に、たまたまいたのね」 ということしか意味しないことが容易に理解できます。 「今の私・あなた」がその薬を飲んで治ることなど論理的(演繹的)にまったく保証されないことが、統計学なんぞ知らないシロウトさんにも直観的に分かります。
  • アメリカの試験で有効性が示されたと言われても(あるいは逆に有効性が示されなかったと言われても)、「これで有効性に関する決着がつきました」 なんて気分にはならないはずです。 「へぇ、アメリカ人でお薬飲んで治った人がたまたまいたのね。 その事実は分かった。 で、それを私たちの興味にどう位置づけようか?」 と、薬の効き方を過不足なく、冷静に解釈・議論できるようになります。
  • 「この薬は有効なのよ! 臨床試験で有効性・安全性が示されているのに、それを信じないなんて非科学的だよ」 などという物言いの能天気さが分かるようになります。 言い換えを行うと、そういう能天気な連中に対して「あなたの気持ちや善意は分かるけど、一度や二度そういう患者がたまたまいただけで、どうしてそこまで強気に『効きます認定』 ってラベルをモノに貼りたくなるのかが私にはさっぱり分かりません。 もしかしてあんたって、ラベルフェチ?」という冷静な物言いができる人になれます。
  • 「弱定義」ではなく「強定義」、すなわち「製薬企業の人たちが必死で薬が効いた人を探し出す」 という新薬開発の現実に即した言い換えをすると、ますます冷静になれます。 「私のまわりに薬に反応する人が『たまたま』フツーにいるなんて保証はないよな」 という達観に至ります。

(注) むろんこのブログの読者は賢いから、私が上で 「臨床試験は科学的な営みではない」 といった暴論を吐いているわけではなく、また、頭のネジが飛んだ陰謀論(笑)のごときを勧めているわけではないことは理解してますよね? ここで書いていることは演繹と帰納に関する科学哲学的な試論だよ。 近頃は日本語が読めないニポン人が増えているので念のため。

 

私の提案する「言い換え」のポイント(長所)は、

薬が効く(薬に反応する)患者が存在するのは 「必然」 ではなく、「たまたま」 の事実であることが、言い換えによって明確になること。 「たまたま」の事実を「薬の必然的な属性」と勘違いさせる構造(言語、科学の構造)と社会要請が背景にあることを、みんなが容易に自覚できるようになること。 

薬機法などの体系は 「モノの性質の必然」 と「患者(と患者に起きること)の 存在の偶然」 をテキトーにごまかして混ぜこぜにしてる (役人はそのことを無視する) のだが、そのテキトーさの帰結の重大さに気付こうね、ってことだ。 たとえるなら、映画 「They Live」 の 「ホントの姿が見えるサングラス」 をかけてみようね、ってこと ・・・ ん? かえって分かりにくくなった気もするぞ(笑)

 

ゼイリブ [DVD]

 

この言い換えは、たとえば、

「古いお薬が医薬品再評価の臨床試験で有効性が示されなくても、現に効いている患者はいるのだから、そのお薬の販売をやめるべきではない」

とか、逆に

現に効いている患者はいたとしても、医薬品再評価の臨床試験で有効性が示されなかったらお薬の承認は取り消されるべきだ」

といったことを平然と言って何の違和感も抱かない医薬品業界人の頭を正常化するのにも役立つことは一目瞭然である。 

 

次の練習問題で、小野の定義の驚くべき有用性を実感してみよう。

 

(練習問題1)

「脳代謝改善賦活薬A は臨床試験で有効性が示された」 を、小野の定義に従って言い換えよ。 言い換えた結果、昔、厚生省と企業が無理矢理ひねり出した苦しい正当化 (「時代とともに治療背景が変わったのだぁ」) が不要になることを確認せよ。

 

(練習問題2)

「新薬B は米国での臨床試験で有効性が示された」 を、小野の定義に従って言い換えよ。 言い換えた結果、押しつけがましい ICH ガイドラインやグローバル企業の煽り文句に過剰に踊らされることなく、グローバル試験や海外での臨床試験の結果の受け入れを冷静に判断できることを確認せよ。

 

(練習問題3)

「〇〇ワクチンの安全性は臨床試験で確認されている」を、小野の定義(の安全性バージョン)に従って言い換えよ。 言い換えた結果、ワクチンというモノに 「安全ラベル」 あるいは 「危険ラベル」 を貼りつけて、ワクチンというモノにエラソーに自身を語らせようとすることがなんだか変であることを確認せよ。

 

「小野の定義」による言い換え、役に立つからどんどん使ってください。 業界人のやってることのどこが神事なのかを知るのにも役立ちますよ。 実は 「小野の定義」 はいろいろと深い意味(論理学 (意味論) と統計学における位置づけ)で正当化されるのだが、理屈っぽい話は今日はこのくらいにしておきます。 続きは次回以降に。

 

*****

 

もう恋バスの季節なのだなぁ。

 


www.youtube.com

 

皆さん、楽しい年末を。 サル的なヒトは相変わらずチェアリング(もどき)を楽しんでますよ。 最近は寒くて我慢大会の様相を呈しておる。 鼻水が(笑)