小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

嘘だろ? 嘘だろ? 今何年だよ、神様 ・・

月曜深夜。 布団の中で伊集院光の 「深夜の馬鹿力」 をウトウトしながら聴いていたら、おねえさんの力強い歌声が聞こえてきた。 すーっと景色が透明になって、声だけが頭の中で響きわたる。

♪ 

教室の窓から眺めていた 雨にさらされたグラウンドのボール

黒板の世界地図じゃ どこへも行けなかった。

どうにもならないことを知って どうしようもないこととそっぽ向いて

それでもあきらめきれずに みんな大人になった

 

高層ビルに旅客機が突っ込んでいくところを 震える手を押さえながら

ただ見ていた

警報が鳴り響いて海が街を飲み込んだのは もう10年も前のことなんだね

今じゃこんな大都会だというのに 病床が足りないんだという

 

嘘だろ? 嘘だろ? 今何年だよ 神様・・

 

あの空の向こうに消えた夏も 何も言わず降り続く雨も

本当はどこへ行ってしまったの?

声がかれるまでずっと歌って それでも涙が止まらなくて

あの世界地図の広さが 今は分かるよ ・・・

 

おがさわらあいさんの 「ちっぽけなぼくらの世界地図」。


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なんだ、これは? 一体なんなんだ? 悔し涙が止まらなくなって、眠るどころではない。 どいつもこいつもふざけやがって。 僕らだって子供の頃には、自分たちがこんなふうに愚かな大人になってしまうとは思ってもみなかったのだ。

夢の未来図どころか、普通の未来図すら描けない大人たち。

市民が住む市街地にミサイルを撃ち込み続ける頭のいかれた連中。

それを見て、どこかの国のミサイル基地に先制攻撃できるよう準備をしておけば平和が保たれると急に声高に叫び始める連中。

修学旅行中に金持ちの子にだけ配られる政府からのお小遣い。 別室に連れていかれる貧乏人の子どもたち。

三、四百円の学食の定食が高すぎて食えず、腹をすかせてる貧しい大学生たち。

ただただ情けなくて、悲しくて、涙がこぼれる。

 

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というわけで、皆さんお元気ですか。 僕は元気じゃないけど、なんとかやってます。

 

大学は博士学生の発表会が先週行われたところ。 緊張のせいでいつもより1オクターブくらい高い声で発表してた学生さんたち、お疲れさまでした。 もっとも最終論文を仕上げて提出するのはこれからなのだから、引き続き頑張ってね。

プレゼンの出来はみんな違うのだが、プレゼンよりもはっきりと学生の実力が見て取れるのが、質疑での受け答えである。 正確に言うと、受け答え以前の 「質問の日本語(英語)の文章の意味をきちんと理解・解釈できるか?」の力に大きなばらつきがある。 日本語・英語の力です。 皆さん、総じてちょっと情けないレベル。

ほとんどの学生さんって質問したことにまともに答えられない。 「正解を言えない」 ではなく 「質問の意味が分からない」 のである。 たとえば 「君の研究におけるその観察項目の示す意味が分からない。 それは一体何を表してるの?」 との質問に、「この観察項目に意味がないと私としても困るので、意味があるという前提でこの研究を行いました。 それが何を意味するのかの確認はしてません」 と堂々と答えた学生がいたっけ。 笑い話ではなく、実話である。

質疑どころか対話にすらなっていない。で、まったく無意味な、そんな虚しいやりとりをしてるうちに時間切れ、「はい、お疲れ様」 で発表は終了。 最近の学位審査の発表会ってそんなのばかりで、正直げんなりである。 

で、こうした状況が、博士発表会などという緊張の場だけではないから困ってる。 毎週のセミナーや日々の面接指導でも、まともな対話・会話がほとんど成り立たないという悲惨な現状。 私と学生さん(ほとんど社会人)の間だけでなく、学生さん同士の間の対話もお互いが何を言ってるのか分からないまま終了してる。 対話もどきの最後に 「的確なご指摘、ありがとうございます」 なんて社交辞令を皆が言うのだが、後で確認すると、お互いの言っていることが通じてないことがほとんど。

あーあ。 情けない。 国会で盛大に繰り広げられている議員・お役人連中の質疑もどき(言語的に意味をなさない発話行為)を真似してどうする。

これって一言でいうと、自らが取り組む学問領域の勉強を本気でしていない、ということに尽きるのだろう。 がんばって勉強しようよ。 製薬企業やお役所やコンサル会社で日々仕事をしているだけでは決して身につかない 「技(=知恵、概念)」 を皆さんは学ばないといけないのよ。

 

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2015年から7年間一緒に研究室を支えてくれた秘書のKさんが11月で退職。 企業向けの研修コース(RC)の事務局でも主役で頑張ってくださいました。 ほれ、会場の受付でニコニコと受講生の皆さんの世話をしてくれた、あのおねいさんですよ。

7年間ってあっという間である。 「ああ、そういえば 2015年の春、バス通り沿いの散りかけた桜の木の下で、ピザとイチゴを用意して、秘書さんたち、学生たちと皆でお花見をしたよなぁ」 などと遠い目になる。 あの日は早春の風がまだ冷たく、しかし、陽射しはまぶしかった。

二年半前の春、コロナの緊急事態宣言が出たときには、「RC研修、そもそも開講できるのか? 本年度は中止か?」 と皆が青い顔で右往左往しましたなぁ。 研究室スタッフで慣れない初めてのオンライン会議をしたのも良い思い出である。

Kさん、学生の世話から研修の世話まで、本当にありがとうございました。 とても頼もしい戦友でしたよ。 みんなで鰻を食べる会、また誘うからね。

 

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最近読んだ本を何冊か紹介。

 

東大駒場の英語のガリー先生の英語エッセイ。 「Native speaker」 であること、母語を話し、操ることの意味を面白く考えさせる。 ガリー先生がインドの英字新聞を読むのに、辞書を引かなければ意味が分からない「英語」が使われていたことにショックを受けた件には大笑い。

 

量子力学の「波」(シュレディンガー方程式)として存在する粒子の状態について、誰か(人間)がそれを観測することで一点に収束するという(主流の)コペンハーゲン解釈に対して、著者の和田先生は 「多世界解釈の方がより良い説明となる」 と主張。

一般的な確率解釈ともつながる話なので、興味深く読めます。(ただしこの手の理屈っぽい話が好きな人限定。)

 

ただただ涙があふれてしまう表題作(「花まんま」)。 全編とおしての昭和の匂いがたまらない。

 

あのシーナさんがおじいさんになって、コロナで死にかけたりして、そのヨロヨロした感じのぼやきがたまらない ・・・ という朝日新聞の書評どおりの本。 シーナさんってエッセイの達人なのだが、もはや仙人の域に達している気がする。 

 

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本格的に寒くなってきたので健康に気を付けてのんびりやりましょう。 読まねばならない 学生の論文が年末年始はなぜかたまってしまうのだが、見なかったことにしてしまえばよいのである。 量子力学的にはそれですべてOKだ。

 

ではまた。 今年もたくさんの人たちが去っていった。 心寂しい年の瀬。 「寂しくない、寂しくない ・・ と心の中で呟いていればホントに寂しくなくなるのかなぁ」 などと幼児のようなことを、独りぼっちの夜の大学のオフィスで、思う。