三月になってしまいました。 皆さんお元気?
毎年のことだが、春はどうもメンタルがやられてしまう。 現在進行形で起きている身の回りの変化をすんなりと受け流すことができなくなってしまう感じ。 一つ一つの変化は、誰にとっても (むろん私にとっても) 喜ばしいはずの出来事なのである。 たとえば長いこと一緒に苦楽を共にしてきた学生やスタッフとの別れ ー卒業や新天地への旅立ちー とか。 でもそうした変化・出来事の残響のようなものが、喉に刺さった小骨のように頭からいつまでも抜けない。
その人たちと過ごした日々を思い出し、「あの時、あの人にこう寄り添うべきだったのかも」「あの時、あの人が打ち明けた悩みをもっと真剣に聞いてあげていれば、『今』 の姿は違ったのだろうか・・」 などと考え始めると止まらなくなり、とても苦しい。 今さら苦悩してみたところでどこにもたどり着けやしないことは分かってるのだけど。
迷走しながら思い浮かべるのは 「出会いは別れの始まり」 という身も蓋もない人生の真理だったりもする。 そこまでいくともはや誰の手にも負えぬ。
喪失の物語に取り憑かれちゃっている。
でも昔から僕はこうなのだ。 特に春のこの時期はそう。
モヤモヤしてどうしようもないから、毎晩、大学の構内を小一時間ランニングすることにしたのである。 薬学部を出て、東大病院前のバス通りから生協の本屋あたりを左折し、安田講堂を抜け、図書館から薬学部へ戻る経路を何周か走る。
絶望的な気分を抱えながら真っ暗な大学構内をやみくもに駆け抜ける。 やけくそランニング。 ランニングって本来は健康増進に役立つはずなのに、なぜか健康のニオイが一ミリもしない(笑)。
で、ご想像のとおり、ランニングでは気分はまったく晴れないのだが、僕をかわいそうに思ったらしい神様は一つだけご褒美をくれた。 それはランニング経路で出会う猫。 バス通り沿いの古い、歴史ある赤レンガの建物の下あたりで、時々、ハチワレの白黒の猫が僕を待っていてくれるのだ。 メンタルが弱った僕を救ってくれている。 ホントの話である。
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その白黒のネコは、建物下の暗がりからランニング中の僕を冷たい目で見上げて、
「あんた、ちゅーる は持ってるか? え、持ってない? 生協で売ってる魚肉ソーセージでもいいんだが ・・・ まぁいいや。 次に会うときは忘れずに、な」
と突然話しかけてきた。 驚いている僕に
「あんたさ、毎日暗い顔してこのあたりを走ってるな。 いつもここで立ち止まって、二階の窓の灯りをじっと見つめてるだろ? なんかワケありだな? オレでよければ話を聞こうか?」
と言った。 不思議なことに、僕は何の躊躇もなくごく自然にそのネコに、
「この春はいろんなことがあったんだ。 つらい別れもね。 僕にとってとても大切だった人たちともう心を通わせることができないことが寂しくて仕方ないんだよ。 僕が今ここでその人たちの幸せをいくら思ってみても、その思いは十分の一くらいしか相手には伝わらない。 まったく伝わらないかもしれない。 そのことが、いつもの春よりもなんだか辛くてたまらない」
と答えて、ため息をついた。
「ははは。 あんたって哀れなバカだなぁ。 それは、思いが伝わらないんじゃなくて、その人たち、あんたの思いなんか端(はな)から聞く気がないんだよ。 ほれ、昔の歌で 『♪ 男はロマンチスト 憧れを追いかける生き物』 ってのがあったろ? あんたは、相手を勝手に理想化して、なんでも互いに分かり合える人にしてるんじゃないか? でもね、そんな相手は現実にはいやしないんだ。 幻を見てるだけ」
と、ネコは僕を鼻で笑った。
「その連中、きっとあんたのことを 『困ったときになぜだか助けてくれるお人好し』くらいにしか思ってないぜ」
口が悪いネコだ。 なぜネコに人間がここまでバカにされねばならないのだろう。 でも言ってることはそのとおりかもしれない。 僕の一方的な思い込み。 「人というのはこうあってほしい」 という憧れと願望を相手に一人相撲してるだけ・・なのかな。
対岸の緑色の灯火 -憧れのヒトが住む対岸のボート置き場の灯りー を夜ごと見つめていたギャツビーのように、僕は暗闇の中で、赤レンガの建物の二階の窓から漏れ出る白い灯りを仰ぎ見た。 もはや手の届かないところにある、手放してしまった優しさの淡い輝き。 ・・・いや、違う。 僕が見てるこの灯りは幻などではないはずだ。
白黒のネコは、僕の目から涙がこぼれ落ちるのを不思議そうに眺めながら言った。
「情けない顔するなって。 いい年したおじさんが幻を見て泣くんじゃないよ。 通りを歩いてる学生が不審な顔をして振り返ってるぞ」
「う、う、うぐっ・・・ ねぇ、白黒ネコくん。 もし ・・ もし、あの灯りが君が言うような幻じゃなくて、ホンモノだったら?」
「あんたも呆れたロマンチストだなぁ。 幻だろうとホンモノだろうと、失ったものは元には戻らない。 気の毒だがな。 あの灯りがあんたにとって大切なものだとしたら、あんたはそれを決して手放すべきではなかったんだよ」。
二階の窓の白い灯りを再び見上げながら、僕はそのまま身動きすらできずにいた。 そんな僕の傍らで、白黒のネコは夜空に浮かぶ下弦の月に目をやった。 そして、落ち着いた声でこう呟いた。
「・・・けどさ、あんたは、届かないあの灯りに毎晩手を伸ばし続ければいいんだよ。 これからもずっと。 あの灯りを信じて。 『ある晴れた朝に、きっとそれは戻ってくる』 と信じて生きてみたらいいのさ。 願いが叶おうが叶うまいが、そうやって一途に憧れを追い続けるのが人間という生き物なんだろ?」
このネコは見かけよりずっと長生きしているのかもしれない。
「あ、それと、次に来るときには ちゅーる、忘れるなよ」
そう言い残すと、白黒ネコは赤レンガの建物の地下階、漆黒の暗闇に吸い込まれるように消えてしまった。
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後悔が残るくらいがちょうどいい 春あわゆきのほかほか消える
(東 直子)
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去る者は日日に疎し。 Out of sight, out of mind.
親しい者でも、顔を合わせなくなると、日が経つにつれて疎遠になっていく、ということ (コトバンク)
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この春、いろんなところに旅立つ・旅立った皆さん。 お元気で、幸せに生きていってください。
僕は大学の片隅のちっぽけな研究室で一人やさぐれながら、懐かしい歌を口ずさんでいます。
♪ 人の不幸を祈るようにだけは なりたくないと願ってきたが
今夜おまえの幸せぶりが 風に追われる私の胸に痛すぎる
(中島みゆき 「怜子」)
煩悩まみれのおじさんとしてがんばって生きてみます。
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久しぶりに読み返した The Great Gatsby が呆れるほど心に沁みる。 きっとあの白黒ネコもこの本のエンディングに涙したに違いない。
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いわゆる対話型AI、ChatGPTについて少々。
メディアで大騒ぎしてるので、私もためしにいろいろと話しかけてみたのである。 日本語にはやや難があるらしいので英語で。
で、二日間くらい会話しまくった私の印象は 「ChatGPTさんって、ニポンのお役人とそっくり」。
とても優秀ではある。 質問に対して、そつなく、いい塩梅でそれらしい答えを返してくる。 質問をだんだんと理屈っぽく、ややこしくしていくと、一応は質問の意図(ややこしくしようとしたポイント)に応じて答えの表現を変えていく賢さ(ずる賢さ)は持っている。
だけど、危ないのはそこから先である。 ChatGPTさんって、本質的に分からないこと(例: 論理的に答えられるはずのない問題、科学が追い付いていない問題、事実が確認されていない問題) にまでそれらしく答えたような顔をしてしまう。
たとえば「製薬企業はランダムサンプリングを一ミリもしていないのに、中心極限定理を使った分析をして平気な顔をしてるのって、変じゃない?」 と尋ねたら、「はい、あなたの言うとおりです。 患者数が少なかったり、倫理的にランダムサンプリングできないことがあります。 ランダムサンプリングを要しない分析方法もあります。たとえば○○法、××法など」 ・・・ ?? 「いや、そこは質問のポイントではないぞ。 どうして論点をずらすのだ、あんた?」とイラっとする。 表現を変えて同じことを何度も尋ねたが、帰ってくるのは上の回答の単なる再構成。 堂々巡り。 イライライラ・・・
要は、製薬業界の薄っぺらい常識や言い古された決まり文句(cliche)以上の答えは出てこないということ。 業界・学会のタブーになっていて、過去に誰も本気で議論したことがない問題については、ChatGPTは当然ながらまったく何も答えを持っていないということである。
つまり、学生が、私の出題する試験問題やレポート課題を、ChatGPTを使って答えようとしてもほぼ無駄だってことがよく分かったのであった。 一安心である。
ちなみに Harvard の Pinker 先生(有名な心理学者)も ChatGPTでいろいろ遊んでみたそうで、
「ある日の午前 9時と午後 5時にメイベルさんは生きていた。 彼女はその日の正午に生きていたかな?」
と尋ねたら、ChatGPT君は
「メイベルさんが生きていたかどうかははっきりしません。 午前9時と午後5時に生きていたことは分かっていますが、正午に生きていたかどうかについては情報がありません」 と答えたそうな。 うん、これもChatGPT君の答え方の特徴。 「生きている alive」 って述語の意味がまったく分からないのに、「分からない」 とは答えない。
・・・ で、以上をまとめると、ChatGPT君って、お役人の答弁とそっくりだとは思いませんか? 答えているようで何も答えてなかったり、表現を変えて同じ内容を何度も繰り返したり、本来分かるはずのないことにそれらしい答えもどきをしたり。 分からないことを「分からない」 と答える能力がなかったり (「分からない」 は 「分かる」 よりずっと難しい述語かもしれないけど。 すぐに無限論のパラドクスのどれかがさく裂しそうな気がする)。
というのが、現時点での私の印象である。 こうしたAIって、当然これからさらに進化はするだろうから、楽しみではあります。 あと、今回私が試した、相当にお行儀のよい振る舞いをするように制約がかかっている ChatGPTではなく、質問者に対して悪態をつくと大評判の、マイクロソフトの Bingってやつの方が遊ぶには面白いかもしれません。 お試しあれ。
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ふー。 今日はここまで。
メンタルが弱くなっているのにここまでブログ記事をちゃんと書けた自分を褒めてあげようと思う。
さて、外は真っ暗になった夜8時。 これからいつものように、やけくそ構内ランニングに行ってきます。
じゃまたね。 皆さんも健康に気を付けてね。
・・・ あ、なんだかまた寂しい気持ちがぶり返してきたよ。 今日はニャンコだけじゃなくてお月様にも相談してみるか。