小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

気が滅入ってるくせにややこしいことを書かない

 

そういえば、村上春樹の「風の歌に聴け」のお話の真ん中あたりに、こんなエピソードがあったことをふと思い出したのである。

 

僕がある日スーパーマーケットから食料品の袋をかかえて戻ってみると、彼女の姿は消えていた。彼女の白いバッグも消えていた。 ・・・ 机の上には書き置きらしいノートの切れ端があり、そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。 おそらく僕のことなのだろう。

 

村上春樹風の歌を聴け」 

 

自分は今後の人生で、いったいあと何人から「嫌な奴」 と思われるのだろう。 数えるのがしんどくなってきた。 カチンと乾いた音がしてカウンターが一つ進んだ2023年の春。 

 

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「嫌な奴」 認定されるのを恐れていたら、誰のことも手助けできない ・・・ と元気なときの自分は考えられる。 でも今はその元気が不足している感じ。 うーむ。

 

この春、「人間っていくつもの顔を持ってるんだよなぁ」 ということを学び、素直な思いを伝えることの難しさ、人を信じ切ることの難しさを、痛感したサル的なヒト。 小栗旬も飲んでいる(はずの)大正漢方胃腸薬が手放せぬが、まぁなんとかやってます。

皆さんはお元気?

 

少し前に閉店した東急本店、先週からビルのまわりに工事用の白い塀が立ち始めた。 これから何年もかけてデカいビルに生まれ変わって、渋谷の街の表情をまた変えていくのだろう。 でもたぶん、生まれ変わったその場所には、私のような貧乏なおっさん (東急本店のデパ地下で150円のコロッケを 3個ほど買って帰るのが楽しみだった) の居場所はなかろう。 それはそれで一向にかまわんが。

 

で、その渋谷界隈。 用事があって時々通り抜ける繁華街のビルの地下一階に「クラブ」とやらが出来たらしいのである。 入口のところに黒い服を着たにいちゃんが立っている。 時々大音量の音楽が漏れ聞こえる。 むろん僕のようなパンピーのおっさんが入れる店ではないから、ただ前を通り過ぎていたのだが、昨晩、こんな看板が出ていたのである。

 

「外人のお客さんは無料とさせていただきます」

(・・・と日本語で書いてある(笑))

 

・・・。

意味が分からない。 いや、意味は分かるのだが、やはり意味が分からない。 いろんな意味で。 

ここで入店が期待されている「外人」 って、ほれ、たぶんああいう外見の外人なんだろうね。 僕なんかは国籍が仮に日本ではなくても、顔のつくり的にダメなんだよね(笑)。

WBCとかで 「ニポン万歳!」 と大騒ぎしてるニポンだが、この地に住む土着の人たちメンタリティは、米兵にぶら下がっていた1945年頃とあまり変わってないのね。 あれから 80年近く経つのに。 英語ができれば上級国民様になれると勘違いしてる阿呆人たちが未だに私の周囲(大学内)にもたくさんいるし(こういう連中には「十分条件と必要条件は違うのよ」などと語っても理解できない)。 ニポン人ってずっとこんなふうなままで、22世紀に突入したりするのだろうかね。 今からもう一世代か二世代を経ないとこの国はダメな気がしてきた。

 

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新年度の講義の準備をしながら、例によって、薬効評価の神事性について考え続けているのである。 きちんとした理屈があるようで実はまったく無いのが、ちょっと惨めな今の医薬品評価科学なのだが、「理屈が無い」 ことを分かりやすく説明することは結構難しいのである。 

私が「理屈が無い」 などと言うと、すぐにカッカしながら  「いや、相当にややこしい理屈があるでしょ。 統計学とか、臨床試験という科学的な営みの体系とか。 小野さんはそうした科学を無視するの?」 などと反論してくる純情刑事のような方が現れるから面倒臭いのよ。 面倒臭いことは避けたい。

 

私が言ってるのは、「目的を達成するための 『理屈』 がない」 ってこと。 「薬が効く」 を哲学的に十分に深く考えるための理屈がない、ってこと。

 

このあたりの状況、最近はこんなふうに論理学の概念を援用して説明するようにしてる。

 

今の医薬品評価には構文論(syntax. 証明手続き)はあるが、意味論(semantics. 「薬が効く」の定義)が無い。

 

どう、すっきりしてて分かりやすいでしょ? ・・・ なに? 何が言いたいのか余計に分からなくなった?

分かりやすく言うと、「有効性(や安全性)」なるものを一定のルールに従って構築したり、推論したりする仕組みはあるけど、その「有効性」 なるものがそもそもどういう事態(あるいは出来事の成立)のときに成り立っているのか(逆に成り立っていないのか)をこれまで誰も定義として決めていない、ってこと。(注 1)

(注 1)論理学が分かってる人向けに言うと「真理値表がない」ってこと。 

 

おそろしいでしょ?

「有効性」 の定義がなくても、それを一連の手続きで構築(証明)できたような顔をしていれば、世の中的にはそれでいいんじゃないの? と思われる方がいるかもしれぬ。 が、それではやはりダメなのですよ。 なぜなら、私たちはその一連の手続きなるものの妥当性や性能を論じる必要があるでしょ? そのためには、動かない・固定された「有効性」の定義が絶対に必要なのよ。 当然の話だけど。(注 2)

(注 2) これも論理学の概念で言うと「意味論がないと構文論(という手続きの体系)の完全性や健全性が論じられない」 ってこと。

 

医薬品評価のこうした悲惨な状況を背景として、皆が三者三様どころか百者百様に「この手続きをもって『薬が効いた』こととする」 と勝手に宣言しまくるという現実が生じているように私には見える。 ほれ、最近では、ゾコーバだのレカネマブだのを評価していたあの人たち(賛成派も反対派も)の振る舞いですよ。

 

どうですかね。 たとえ話としては結構いけていると思うのだけど。

 

このあたり、大学や無料出張講義ではもう少しきちんと説明しています。 興味のある人は大学院やレギュラーコースの講義にこっそり潜り込んで聞いてね (笑)。 いや、そろそろ無料出張講義を再開した方がよいのか ・・・ どうやって再開するかを考えてますので待っててください。(注 3)

(注 3) お詫びです。 計画して、受講生まで募集したのに、実施できていない(延期され続けている)無料出張講義があるのです。 コロナがらみの大学のドタバタでタイミングがうまくいきませんでした。 手を挙げて頂いた方々、ごめんなさい。 どうやって再開するかを考えているところです。

 

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最近読んだ本。 

 

母国ポーランドのためにアウシュビッツにわざと入り、3年間生き延び、内部から様々な報告を行ったヴィトルト・ピレツキ氏のお話。 むろんノンフィクション。 内容が濃厚で、読んでると息が苦しくなる。

しかし彼の活躍は単純な英雄譚にはならないのである。 連合国も母国ポーランドも彼の報告を無視。 最後は、彼の愛する母国で、戦後の共産党傀儡政権によって逮捕され、銃殺された。 

ウクライナで起きていることを他人事と思ってはいけない。 歴史は何度でも繰り返すのである。

 

 

フリーレンの最新刊は心に沁みますよ。 すべてを黄金に変えてしまう魔族、黄金郷のマハトが、人間にはあるけど魔族にはない感情、「正義感」「悪意」「罪悪感」 にマハトがなぜか引っかかりを覚え ・・ というお話。

魔族と人間の心の違いとして話は進むが、読者の心がザワザワするのは、むしろフツーに 「人と人は心が通じ合えるわけではない」 という残念な真理を描いているからだよね。  「これまで同族だと思ってたのに、この人には、今私の心にある『これ』と同じ感情(共感)が無いんだ・・・」とがっかりした経験には事欠かないだけに、私の心に突き刺さったのである。 

あとね、このお話って、鬼滅の刃の上弦の壱、「黒死牟」のエピソードとなんだかとても重なっている気がするのである。 鬼滅の刃で私が最も涙したエピソード。(→ これね。

外に出て人の匂いを嗅ごう。ニャンコとも話そう - 小野俊介 サル的日記

 

「私は一体何のために生まれてきたのだ 教えてくれ 縁壱 ・・・」 と呟きながら天に滅せられた黒死牟。

フリーレンの方はこれから一体どういう展開になるのか、ドキドキする。

 

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風の歌を聴け」 にはこんなくだりもあったっけ。 女の子とヨリを戻す場面。

 

彼女はしばらく黙った。

 

「今夜会えるかしら。」

「いいよ。」

「8時にジェイズ・バーで。いい?」

「わかった。」

「・・・ ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」

「わかるよ。」

「ありがとう。」

 

彼女は電話を切った。

 

村上春樹風の歌を聴け

 

こんなふうに何も語らずに、語らなかったことが通じ合う人間関係にあこがれてしまう。 バカげているとは分かっているが、こういう友人や相棒が傍らにいてくれることを夢想してしまう。 そしてため息。

 

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夜の空気が生暖かくなってきた。 大学の構内を走るのも楽になってきましたよ。

毎晩、三四郎池のほとりで人生の虚しさについてうつらうつらと思いめぐらせています。 そのうちに、昔からこの池に住む河童にさらわれて、尻子玉を抜かれるかもしれんので、後のことはよろしく。

じゃまたね。