小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

お話の世界へ行きたい

映画、小説、漫画といった虚構、作り話ってなんだか不思議である。 虚構の中にある情景、そしてそこにいる登場人物って、どこに、どういうふうにある・いるんだろう?「車 寅次郎」ってどこにいるんだろう? 我々の頭の中? それは頭の中に「豊臣秀吉」がいるのとどう違うの?

 虚構世界の存在論は哲学の重要な領域である。 とても深遠。 天才哲学者クリプキの「固有名って何?」の講義でも虚構世界の固有名の議論は何度も登場し、実はどこか怪しい(決めつけの)結論になっているような気配もある。 が、哲学世界のややこしい議論は措いておこう。 なんせここはサル的日記。

 

虚構は楽しい。

自分の中に染み込んでるけど、自分とは別物の世界。 そんな虚構世界が何千、何万と私の中にあって、何千、何万(いや、もっとか)の登場人物(無数のゾンビ、ゴジラ、イーサン・ハント、ブレードランナーを含む)が皆生き生きと生きている。

虚構世界・登場人物たちが私の中にある・いることは確かである。 が、もしかしたら気づいていないだけで、私の外の世界にもそうした世界・人物たちがある・いるのかもしれない。 その境界を踏み越えるのは、私自身が半ば虚構のヒトとなる時、つまり私が死んであの世に行く時なのだろうけど、最近、生きているうちにほんの少し、その境界を踏み越えたいと思うようになった。 

虚構の世界にちょっとだけ行ってみたい。 もっと分かりやすく言うと「映画や小説の舞台に行きたい(笑)」

「虚構世界の存在論なんて難しいこと言っておきながら、あんた、それって単なるミーハーじゃないか。 USJ のハリーポッターのアトラクションを喜んでる連中と同じだ」・・・ とサル的なヒトを揶揄するのは的外れである。 そんなもの同じに決まってる。

 

死ぬまでにぜひ訪れたい虚構と現実の架け橋をいくつか紹介します。 皆さんと一つでも共有できたらいいのだけど。

 

その1。映画「彼女がいた夏(Stealing Home, 1988)」のラストシーンの前、主人公がケイティの遺灰を空と海に撒いた桟橋と海辺。 New Jersey の Fisherman's Cove というところらしい。

野球少年だった主人公のビリーが 6歳上の従姉のおねえさん、ケイティ(ジョディ・フォスター)に恋をした夏のお話。 二人は離れ離れになり、その十数年後、ケイティは自殺。 なぜか「私の遺灰のことはビリーに任せて」 という遺言を残して。 悲しみの中、最初は遺言の理由が分からなかったビリー。 だが、ふと思い出したのである。 十数年前のあの夏、ケイティがこう言っていたことを。

See that's all I want to do Billy-Boy.
I want to leap off this pier and fly high in the air, hang with the wind and drift through the clouds…

God I wish I could do that...

ビリーくん、私のしたいこと、分かってるよね。 私はこの桟橋から飛び立って空高く舞い上がりたい。 風に吹かれて雲の波間を漂いたいの。

神様が願いをかなえてくれるかな ...

その桟橋が New Jersey に今もある(らしい)。 それを見ずして死ぬわけにはいかない。

この映画、まだ幼い表情が見え隠れする若き日のジョディの輝きがまぶしい。 超有名女優になる少し前。 ストーリーも堅実で美しく、初めて見た 35年前も、そして今だって、涙が盛大に出てくる。 ただし昔と今とでは、流れる涙の味と意味が違うよなぁ・・・ ビリーだけではなく、僕らも皆、年をとったから。

 

その2。 藤井風の「満ちていく」の MV に登場するニューヨーク近郊の古いピアノ屋さん。 MV のつくりが短編映画そのもので素晴らしいので、もしまだご覧になられてない方がいたら youtube でどうぞ。

藤井風が演じる MV の主人公は仕事がうまくいかず、人生のどんぞこ。 打ちひしがれて乗った NY の地下鉄。 ふと見ると隣の車両に、今はもういないお母さんの姿が。 その幻に導かれるように、彼はある楽器店に向かうのである。 子どものころ、お母さんに手を引かれて入った楽器店。 即興でピアノ演奏してくれる母を見ている幸せ。 そんな思い出の場所。

なおここは本物のお店なので、営業の邪魔をしてはいけません。 が、行きたい。

 

その3。映画「エクソシスト(The Exorcist, 1973)」で、悪魔に取り憑かれた少女リーガンを救うべく、悪魔を自分に取り憑かせて飛び降り自殺したカラス神父。 その現場、普通の住宅街にある急な階段。 ワシントンDCのジョージタウンにあります。 有名な観光名所になっていて、ガイドブックにも載っている(笑)。

虚構だから怖がりの私でもさほど怖くはないぞ(・・・と強がってみる)。 時代を代表する(ホラーを変えた)映画の素晴らしさ。 何度見ても唸ってしまう。

実は、ジョージタウン大学で仕事をした際に何度もその近くを通ったのだけど、なぜかそのときにはこんな大切な地がすぐそばにあることを失念していたのである。 なんてこった。

 

その4。映画「アンタッチャブル(The Untouchables, 1987)」のラストシーン、シカゴのサウス・ラ・サール・ストリート。 通りの先に歴史的建造物のシカゴ・ボード・オブ・トレードが見える、まさにこの映画を象徴する美しい景観。

映画のエンドクレジットとともに流れる勇ましい主題曲を聴きながら、「禁酒法の廃止? そりゃよかった。 一杯やるさ」 とつぶやき、主人公のエリオット・ネス(ケビン ・コスナー)のように颯爽とこの通りを歩むことができたら、僕はもうこの世に思い残すことはない。そのくらいの究極の映画的カタルシス(精神浄化)。・・・しかしまぁ、せっかくシカゴを訪れたのであれば、この世を去る前に、名物のホットドッグとごっついピザくらいはちゃんと食べておきたい。

 


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その5。 村上春樹の「蛍」で登場する文京区の学生寮の屋上。 友人の死、病んだ恋人との離別。 大切な何かを失い続ける大学生の「僕」。 そんな僕に、寮の部屋の同居人(「突撃隊」。一年中同じ黒の学生服を着て、吃音があって、地理にしか興味がなくて、将来は国土地理院に就職したいという男子)が柄にもなく「女の子にあげるといいよ。 きっと喜ぶからさ」 と言いながら、蛍をくれた。 インスタントコーヒーの空瓶に入った一匹の蛍。 夏の夜、「僕」は寮の屋上に上って、瓶の蓋を開け、蛍を夕闇に放つ。 

このお話を初めて読んで以来何十年もの間、その情景は僕の中でまさしく現実と虚構の狭間にあった。 目を閉じると、屋上の様子ー錆びた手すり、古びた貯水槽―がありありと浮かんできて、夢か現か自分でも分からないくらい。 もはやどっちでもいい。 どっちでもいいから、そのシーンの中に自分の身体を置きたい。 小一時間、夕闇に包まれていたい。

村上春樹さんが住んでいた学生寮ってあの有名な椿山荘のそばにある。 蛍はたぶん椿山荘から飛び出したもの。

実家に帰省した「突撃隊」は、夏休みが終わっても寮には戻ってこなかった。 理由は分からない。 そういう別れも僕らの人生には無数にある。

 

潜り込みたいお話の世界は他にもたくさんあるのだけど、今日はこの辺で。

皆さんもこんなふうに夢想にふけってみたらどうですか。 楽しいよ。 目を閉じるだけで違う人生を生きられるって、幸せ。 仕事ばかりしてると、ダメな人間になるよ。

 

じゃまたね。

 

ワンコみたいに嗅がない

前回のブログで紹介したマンガ「本なら売るほど」。 とにかく素晴らしい。みんな読むべし。

マンガの中で何度か登場するホテルがある。 お茶の水の「山の上ホテル」ならぬ「丘の上ホテル」。 そのホテルマンの若いおにいさんが夜寝るとき、「夜間飛行」 という香水を首筋にそっとつけているシーンがあった。 5歳のときに亡くなったお母さんの形見の香水。 香水の匂いに包まれながら、星の王子様となって雲海を超えた夜空を舞う・・・

申し分なく流麗なストーリーに、サル的なヒトもうっとりして目に涙が滲んでしまったわけだが、同時になんとも言えぬ渇望感、本能的な衝動のようなものも湧き上がった。

 

あぁ、「夜間飛行」の匂いを嗅いでみたい! フガフガしたいっ!

 

文字情報ではこの欲望は満たせない。 匂いは、ワンコのように嗅がないとダメなのである。

ネットで調べたら、「夜間飛行」って相当に有名な香水なのですね。 でも、どこででも売ってるものではないらしい。 近所の西武デパートの化粧品売り場に出かけて、ちょいと試しに嗅いでこようかと思ったのだが、どうやら無理みたい。

そうと分かるとますます嗅ぎたくなる。 

悶々としつつ日曜日が終わる。「明日は月曜日か。仕事行きたくないなぁ・・」と暗黒度5億点の気分で布団に入り、いつものように NHKラジオ深夜便を聴き始める。 深夜1:00。 この時間帯は小説の読み語りである。 今日は名取佐和子さんの「臨時ダイヤ」という、これまた涙が止まらなくなるお話。

「僕はどうして寝入り端(ばな)まで泣いてなきゃいけないんだろう・・・」と自身に呆れ返ってしまったのだが、それとは別にもう一つ、困ったことが起きてしまった。 なんと、そのお話でも「匂い」が主役だったのである。

化粧品の訪問販売で生計を立てていたお母さんの匂い。お母さんが売っていた婦人化粧品の匂い。 ほら、昔のナリス化粧品とか、そういう庶民的な昭和の化粧品の匂い。 それを思い出した娘。

 

・・・

・・・

あぁ、たまらない! 嗅ぎたい! 懐かしい昭和の婦人化粧品の匂いを、嗅ぎたい!

 

もしかしたら匂いが漏れてくるのじゃないかと、ラジオのスピーカーあたりの小さな穴をフガフガ嗅いでみたのだが、悲しいことに匂いは一ミリも漏れ出てこなかった。 AIが跋扈する 21世紀なのに、どうして匂いくらい出せないんだよ、NHK ・・・ と理不尽な怒りが沸いてくる。

視覚、聴覚は容易に満たせる時代。 問題はその先である。 嗅覚、触覚、味覚が代替的に満たされる時代が来るのだろうか。 いくつかの試み(画像に合わせて合成した香りを出す装置など)は知っている。が、それが本能をどのくらい満たせるのかは分からない。 ホンモノとは異なる香りに逆にイライラしたりするかもしれんし。

 

将来の技術進歩はさておき、今の私は匂いに飢えている。 散歩に出かけたのに匂いを嗅がせてもらえない、哀れなワンコになった気分。

男性でも女性でも構わない。 誰か「夜間飛行」の匂い、あるいは「懐かしい婦人化粧品」の匂いを身にまとって、大学の私のオフィスに遊びに来てくださいませんか?

心よりお待ちしています。

 

あ、最近なぜか流行の、気持ち悪い芳香剤入りの柔軟剤の臭いはやめてね。 気分が悪くなるので。

 

*****

 

最近書いたエッセイ。 いわゆる不機嫌ハラスメントについて。

 

「フキハラ」という日本の職場の病理

小野俊介

 

今回は理屈っぽくない話。

 

フキハラ(不機嫌ハラスメント)なる言葉がメディアを賑わせている。 不機嫌な表情や態度(舌打ち、ため息、無視等)で職場・家庭の人々を苦しめること。 部下・同僚だけでなく、上司が部下によるフキハラに苦しむことも多い。

 

40年近いサラリーマン人生、私も数えきれぬほどのフキハラ被害を受けた。

 

私のかつての職場(昭和・平成のお役所)は、控えめに言っても、フキハラ(とパワハラ)の巣窟であった。 どの部署に異動しても必ずその手の困った人が、ごく少数だが、いた。 お役所に許認可申請に来る企業の方々に対する態度の悪さに、同僚の我々すら気分が悪くなることがしばしばあった。

 

企業の方々が提出した資料を目の前で 「こんなものダメだ」 とビリビリ破り捨てる人。 夕刻のオフィスに企業担当者が来訪しているのに、それを無視してマンガ週刊誌を読み続ける人。 ヒアリング中にブチ切れて怒鳴り散らす、感情の制御のできない人は、性別問わず相当数いた。 その手のヒトは今のオフィスにもいるはず。

 

フキハラの人々はむろん身内の職員にも横柄である。 私がおそるおそる「決裁お願いします」と決裁文書を差し出しても、顔さえこちらに向けない。 イライラを同僚に態度で示したいのか、飲み終えた栄養ドリンクの空き瓶をゴミ缶にガッコーンとすごい音を立てて投げ込む人も。

 

お役所をまたぐフキハラもある。 予算要求時期にあるお役所に行くと、不機嫌な係員からしばらく無視される。 我々の顔を見ると、おもむろに机の引き出しから手鏡を取り出し、数本伸びたあごひげをピンセットで抜き始めた人もいた。 作り話ではない。

 

大学・アカデミアのフキハラも相当なものだが、紹介するのはもう少し先にする。 ご容赦頂きたい。

 

恐ろしいことに、フキハラの人々は組織で出世し、重要なポストに就くことが多い。 上司は直接被害を受けないので、フキハラの人々を逆に「難しい仕事をさばく有能な職員」と勘違いしていることが多いのである。 人事のお墨付きを得て、フキハラの人々は「不機嫌」という権力行使を止めない。

 

私も気が短いのでフキハラの人を「ぶん殴ってやろう」と思ったことは何度もある。 が、決裁をもらって帰らないと困る上司や業界の方々、そして家族の顔を思い出し、耐え難きを耐えた数十年だった。 フキハラ被害を受けた企業担当者の中には精神がやられ出社できなくなった人もいる。

 

この手のハラスメントは日本独自ではない。 海外にも emotional workplace harassment といった概念がある。 が、上に挙げた例は、単なる職場内いじめによる非効率を超えた、構造的な非生産性を日本社会・経済にもたらしているはず。 ドラッグラグの原因の一つかもしれぬ。

 

我慢・沈黙していてよいわけがない。

 

実名出してやろうかとも思うのだが、public sector 系のフキハラ・パワハラに関してはその必要ないのですよね。 業界人数万人が、むしろ私よりもはるかにひどい目にあっている(いた)のだから。 我慢せず、沈黙せず、堂々と問題を告発し、議論の俎上に載せ、「あたりまえの public sector/service」 を国民が享受できるようにならねば。

なお、フキハラの人とグルになって甘い汁をこっそり吸っていた人たちがたくさんいることは、また別の機会に。

 

*****

 

今日はここまで。

♪ 緑色の季節を背中に 白い服に包まれて あなたがいた ・・・

などと懐かしいオフコースの曲を口ずさみつつ、三四郎池のそばのベンチで圏論のテキストを読む幸せ。 社会人向けの研修も始まったので、次回は少し理屈っぽい話でもしようかなっと。

 

じゃまたね。

 

ややこしいことを書いて読者をけむに巻かない

「大型連休、いかがお過ごしですか?」 ・・・ という薄っぺらい決まり文句がテレビからもラジオからもしつこく流れてきて、気分が悪い。 あんたらにそんなこと尋ねられずとも、また、連休だろうと月月火水木金金だろうと、ヒトは日々を黙々と生きていくのだし、生きていくしかないのだ。

・・・ などとカッコいいこと言ってるが、これって要は自分がジジイになった証である。 物心ついてから半世紀、毎年毎年、連休には連休の決まり文句、お盆休みにはお盆休みの決まり文句、正月には正月の決まり文句を全メディアから聞かされ続けてきたのだ。 そりゃもう完全に飽きてしまってて、耳にするのが不愉快でしかない。

季節の決まり文句だけではない。 毎年同じことを繰り返す年中行事のような仕事も同じ。 大学だと毎年同じ学事(入学式、夏休み、試験、講義、卒業式等々)を繰り返すわけで、そりゃ飽きる。 どんな仕事にせよ、皆さんのお仕事も結局は基本的に同じことの繰り返しになるはず(でしょ?)。  退職してからは、また別のルーチンの繰り返しになるのだし。

むろん、仕事のやりがいは仕事への飽きとは別次元の話ではある。 いわゆる bull-shit job (やってる本人が「こんな仕事は社会にいらない」と思ってる仕事)ではない、やりがいのある仕事ならば、飽きていても楽しく幸せなはず。 直接にお客さんから感謝される仕事はそうだよね。

幸か不幸か、大学教員には飽きがこない仕事がある。 それは「知の追究」。

今日(5月5日)は朝早く目が覚めたので、現象学(フッサールという哲学者による哲学の一大流派)のテキストをワクワクしながら読んで、「お、なんか少しわかってきた!」 となって、幸せに浸っていたところなのだ。 現象学ってちょっと取っつきにくいところがあって、ここ15年間くらい「よくわからんなぁ」とイライラしていた。

現象学の入り口、有名な「マッハの絵」の解説はもっともらしく思えるし、敷居がそれほど高そうにも見えないのに、そこから一歩進むともうダメなのだ。 何を言ってるのかさっぱり分からない。

登場する概念がとんがり過ぎである。 「おまえ、オレに喧嘩売ってるのか?」という感じ。 「現象学的還元」 に始まり、「超越論的主観性」、「受動的綜合」、「統握」、・・・。 なぜ「エポケー(判断停止)」しなければならないのかも最初は分からない。 実在論や認識論のテキストを何冊か読んでからでないと 「自然的態度」の意味すらよく分からない。 「現象学は哲学者以外にも広く浸透している」 っていう看板、本当は嘘だと思う。

・・・あ、読者が減った。 この時点でこの記事を読むのを止めてしまった人が数十人いるから、この辺で止めておくが、とにかく現象学はややこしい。 しかし、ややこしければややこしいほど「知りたい」「分かりたい」と思うのもサル的人類の性(さが)。 腹をくくってこの連休、じっくり教科書を数冊読んで、やっと初心者程度(大学 2年生くらい)の理解はできた感じ。 すごくうれしい。

特にうれしいのは他我問題(「どうして「私」から「あなた」や「他者」が分かるの?」問題)についてのフッサール、メルロ・ポンティ、サルトルなどの「モデル」が理解できたこと。 これって、薬効評価の方法論や統計学の前提、そして社会選択論(お薬の世界では、経済評価・リスクベネフィット評価で無意識に採用されている論理基盤)への突っ込みを入れるときにとても重要なのである。

薬の評価って、人類が抱えている謎を集約したような危うさを抱えているのに、専門家にその自覚がほぼまったくないという恐ろしさがある。 分かりやすい例では、鎮痛薬などの臨床試験で使う 0-1 の VAS (10cm 長さの線のどのあたりくらい痛いですか ?って患者に尋ねるやり方)っていったいなんだよ、それ? とか。 統計学の研修で「訳も分からず、薬の効果を10cmの 0-1 の線で測定したがる病」に侵された実習生が続出することで、人類が抱える危うさを実感できる。

哲学って、こういう危険の診断と処方箋の一つを与えてくれるからありがたい。

 

・・・なんてことを楽しく考えていた数日でした。 これが大学教員の仕事の一部。 365日24時間ずっとこういうことを考え続けてる(夜寝てからも夢でうなされたりする)から、ワークライフバランスとかまったく意味がない。

つまり連休とか、わりとどうでもいいのである。

 

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まるで平成初期のジャパニーズビジネスマンのようなふりをしつつ、実はゆるーいマンガもちゃんと読んでいるのだった。 すまんすまん。 

 

「本なら売るほど」 はもはや私が紹介するまでもなく、いろんなメディア・書評がべた褒め。 超おすすめです。 むろん本屋で買って読むべし。

あなたや私のような「何を見ても読んでも聞かされても、どこか既視感があって昔のように楽しめないんだよね」 というおじさんおばさん世代の心の琴線に触れる、そんな上質なお話。 若い方々には高級菓子を楽しむような感じで味わってもらいたいと思う。

本の虫にとっては、本を買い、読むことがすなわち人生(現実の生活)である。 それをよくわかっている作者。 思わず乾杯したくなる。

あなたの人生の最後の日、本棚にはどんな本が並んでいるのでしょうね。 残された人々は、それらの背表紙をどういう思いで眺めるのだろう。 それぞれがそれぞれの感慨を抱きつつ。 その日は必ず来る。

あ、涙が・・・。

 

 

これもすばらしく良いです。 「壇蜜」。

壇蜜のファンもそうでない人も、男も女も、壇蜜の魅力(人柄、そして何やらこの人に憑りついている怪しいモノ)にやられてしまうこと必至。 私も完全にやられてしまいましたよ。 壇蜜さん最近体調がすぐれないそうなので本気で心配してしまう。

 

 

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僕の口は4月になると ♪ April come she will ... と呟き、そして5月になると ♪ MAY そんなにふくれないでよ ... と呟いてしまう。 そういう仕様だから仕方ない。 これも年中行事のようなもの。

 


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というわけで今日はここまで。

口角泡を飛ばして人生を論じても、誰も幸せにはならない気はする。

学食で500円くらいで美味しいもの食べて、大学構内の三四郎池で30分ばかりのんびりして、夜空のお月さんの満ち欠けを眺めながら、明日のこと(歯医者の予約をいつにするか、とか、穴が開いて雨水が滲みるスニーカーを捨てるかどうか、とか)を心配していれば、それで人生十分と言えば十分。

あ、それと、夜寝る前に深夜ラジオを聴きながら、天才哲学者ソール・クリプキの講義録を読んで、虚構の世界の固有名の意味を考えられればさらにいい気分になれる。 あと、学問の世界の流行だから、現象学と圏論のつながりも、もう少し理解したいよなぁ。 教科書読む時間が 70時間くらい欲しいぞ。

でもね、たったそれだけで、当面の人生はあらかた幸せ。

 

じゃまたね。

 

うどんとカレーと春の風

みなさんお元気?

桜が満開だったり、お月様が真ん丸だったりで、なんとなく空を見上げてしまう今日この頃。 それはそれでいい気分。 悪くはない。

明日から新年度。 大学には新しく学生がやってくる。 今日は中国からの留学生さんと会って話をしていたら、新たな環境に身を置くワクワク感を少し思い出したサル的なヒト。 ジジイになると、同じ場所で同じ時間に同じことをしているのが安心になってくるのである。 これではいかん。

 

・・・と思って、今日の学食での昼飯には、これまで食べたことがない、春の新メニューを選ぶことにしたのである。 どれにしようかなっと ・・・ おおっ、これがいい!

「明太釜玉うどん」。

明太子とたまごという史上最強級の組み合わせ。 おいしさの要素しか感じられない組み合わせである。

 

 

いただきまーす。 ふふふ、このゴージャスな組み合わせでまずいわけがな ・・・

・・・

おいしくない。 そんなにおいしくない。 まずいわけではないが、そんなにはおいしくない ・・・

 

「明太」を構成する要素は、明太子風味のドギツイ色がついたソース。 明太子そのものの風味、味わいは感じられない。 最初見たとき、ケチャップかいちごジャムかと思ったぞ。

「釜玉」の構成要素は、溶き卵の黄色い汁。 丸ごとの卵の複雑な味わいはまったく感じられず、卵の黄身が凝固した単調な汁。 黄色い栄養の汁を飲まされてる感じ。 はっきり言って、まずい。

こんなメニューが登場することになった背景はむろん 物価の高騰 であろう。 鶏卵が高くなって、安価な溶き卵を使わざるを得ないのは理解する。 生協さんは、そういう状況で、従来の「温玉うどん」 (温泉卵が入ったぶっかけうどん) に代わる新メニューを一生懸命考えてくださったのだと思う。 明太子風味を使おうというのもむろん立派なアイデアである。 生協さんを責めたり恨んだりする気持ちは一ミリもない。 むしろ感謝の気持ちでいっぱいだ。 いつもありがとう!

が、申し訳ないのだが、工夫前の 「温玉うどん」 の方がずっとおいしいのである。 鶏卵の価格上昇分(30円とか50円とか)を上乗せしていいから、元の「温玉うどん」に戻してはもらえまいか。

 

学食ではもう一品、貧乏職員・学生にとって、たまの贅沢の切り札となる「カツカレー」も大変なことになってしまった。

先週、「よし、今日は贅沢してやろう」 と思い、カツカレーを頼んだら、なんと、知らないうちにトンカツの枚数が2枚から3枚に増えていたのである。

「うわぁ、この物価高騰のご時世に、生協さん頑張ってくれておる! 貧乏人の頼もしい味方。 ありがとう、生協さん!」 と生協本部の方に頭を下げて、おもむろにカツをかじったら ・・・ 薄い。 薄くなっとる。 ペラペラになっとる ・・・

以前の肉の厚さの半分以下に思える。 枚数×厚さで計算すると、ネットの豚肉の重量は、たぶん、減っとる。 

セツコ、それはトンカツやない。 ハムカツ や・・・

目に少し涙が滲む。 たまの贅沢をしてるだけなのに、貧乏人はなぜこんな理不尽な仕打ちを受けるのだろう。 が、まわりで楽しそうに高そうな海鮮丼などを食べている教職員や学生たちにはこの涙を見せてはいけない気がする。 人間には誇りと尊厳というものがある。

うつむいて黙々とハムカツのカレーを食べるサル的な教員。

 

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半世紀以上生きてきたが、これほどの物価高騰を経験するのは初めてである。 もう無茶苦茶である。 皆さんもそう感じませんか? 庶民が食うに困るレベルの物価高騰

国会食堂や議員会館での勉強会で出されるカツカレーの肉の厚さも、ちゃんと半分くらいに薄くなっているのだろうか。 そうでもしないと今の政治家連中は庶民の痛みなどまったく分からんだろうな、と思う。 お店の調理担当の方々、あの連中から注文が入ったら、うすーく、うすーく豚肉をスライスしてください。 よろしくお願いします。

 

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明日から新年度。

新入生・新社会人は、僕のようにメソメソしないで、しっかりがんばってね。

空ばかり見上げてることもない。 うつむいていてもいいのよ。 そうすれば道端に顔を出したタンポポの黄色が目に映るでしょ? ほら、それがあなたかもよ。 とても素敵に生きてるよ。 大丈夫、大丈夫。

あしながおじさんのジュディのように皆がなれるわけではないけど、幸せに生きることはできるはず。

 

♪ 君はダンデライオン 本当の孤独を 今まで知らないの

とても幸せな淋しさを抱いて これから歩けない

私はもうあなたなしで

 


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というわけで、また次回。

次回は、何か月勉強してもどうしても理解できない圏論の随伴関手の概念についてブツブツ呟くかもしれんが、ご容赦を。 論理定項が作れるというから、そこまでは理解したいと思う。 人類の知恵(理屈)を学び続ける幸せに浸って、恍惚としているのもまた楽しい。

ハムカツカレーを食いながら貧富の差の不条理に涙するのも、ダンデライオンを口ずさんでしんみりするのも、随伴の概念理解ができずうめき声をあげるのも、みんな自分。

 

じゃまたね。

 

梅のにおいと「高い倫理」とおかあさんの唄

東大の駒場キャンパスで会議。 会議終了後、駅に向かって歩いていたら、ふわっとあの香りが。 足が自然に梅林に向かう ・・・ ややっ、白梅と紅梅が満開だ。

目を閉じて、深く息を吸う。 何度か息を吸っていると、鼻腔がほのかな香りをしっかりとつかまえる。 その瞬間、頭から意識がスーッと抜けて、「あれ ・・・ ここは極楽浄土か?」 と思う。 このままあの世に行ってもいいとすら思うのである。 うん、楽しい。 毎年、この季節にだけ味わえる愉悦。 タバコでもお酒でもない、数千年も人類が使ってきたきわめて健全なトリップ(笑)の方法である。 皆さんも試してみて。 目を閉じて、香りに集中するのがコツだよ。 

散歩の途中のワンコが、時々道端のニオイ(たぶん異性のおしっこの香りなど)をクンクン嗅いでうっとりした表情を浮かべているのは、きっとこれと同じ原理であるような気がする。 

桜は目で楽しみ、梅は鼻で楽しむ。

 

そういえば、座頭の市っつぁんも

♪ 鼻で知る春 木の芽のにおい 耳で知る秋 ツクツクボウシ ・・・

と唄っていたっけ。

 


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そんなこんなで春のにおいがあちこちから漂い始めましたが、皆さんお元気?

季節が少しずつ華やいでいくのに、いろんな事情でなんだか暗い気持ちになっている人もたくさんいるよね。 直接助けてあげることはできませんが、そういう人々の気分転換くらいにはなるように、今年も時々ブログを書きます。 「あぁ、ここには世を拗(す)ねて、世を儚(はかな)む、自分よりもどうしようもない悲観主義者がいるぞ」 と笑ってもらえれば本望。

 

所詮この世は夢、幻。

 

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最近は、ふと思いついたことを 旧Twitter (X) で呟いてそれで終わり、って感じになることが多いのだが、X ってブログの記事をきちんと読んでくれる皆さんとは別人種のたまり場である。 多くは、情報のコスパだのタイパだのと趣(おもむき)のないことをわめいている人々の集積場。 座頭市の歌う「おてんとさん」の深みのある歌詞を、時間をかけて味わおうとする人々はそこにはいない

そういう方々が使っている X という媒体に、そういう方々が嫌いそうなこと、たとえば「倫理のコスパ・タイパなんてクソくらえ!」 みたいなことを書いても、まったく虚しいのである。 数秒間画面に映し出された数行の文章なんぞ誰も気にも留めてくれぬし、むろん読んでももらえない。 数年でそれが十分に分かった。

なので、これからはこっちのブログにも、最近書いたもの(X でのつぶやきを含む)を、読者に分かりやすく一部改変して載せることにします。 だって、ブログ読者 (製薬業界や医療業界の人たちとは別種の常識人(笑)が多い) は、ちゃんと時間をかけて僕の書いた文章をちゃんと読んでくれるもの。

 

たとえば、最近はこんなものを書きました。 大学や企業の「研究倫理研修」 とやらの虚しさ。 大学や企業の研究などとは縁のない方々にもこの虚しさは理解してもらえるのではないか、と思うのだけど、どうかな?

 

問題は「高い倫理」ではなく「低い倫理」である

小野俊介

 

医療機関で研究に取り組む先生方は、「研究倫理研修」なるものを定期的に受けているはず。 その手の研修を受けないと研究論文を発表できないから。

私も大学で研修を受けている。 今どきの研修はオンライン。 まずはじめに解説を読んで学習し、理解度の最終確認テストに合格しないといけないのだが、そこで次のような感じの正誤問題があった。

 

「問: 臨床研究の統計解析はプロトコルに予め定められた方法に従うべきであり、データ収集後に解析方法を変更してはいけない。」

 

想定されている正解はむろん「〇(正)」。 が、またしても私は思い出してしまった。 ほれ、アレである。 数年前、ある製薬企業がキーオープン直前に主要評価項目を変更、当局・お上の審議会もそれを許容して承認された抗コロナ薬があったことを。

当時いろいろな議論があったことは確かだが、それを「研究倫理に反する」と堂々と批判した人はいなかったはず。

その承認判断の是非はとりあえず措いておく。 私がしみじみ恐ろしいと思うのは、倫理研修を受ける私たち研究者の小賢(こざか)しい立ち回りである。 この問いには、ほぼ全員が脊髄反射並みの超速で「〇」と答える。 承認の際のドタバタを思い出した少数派も、「緊急事態だから仕方ないね」 程度の言い訳が頭をよぎるだけ。 「緊急事態だからこそ倫理が大切なのでは?」といった面倒なことは一切考えない。

過去数十年、倫理研修の確認テストで容易に満点を取ったはずの優秀な研究者が引き起こした不祥事は絶えない。 「倫理研修に『倫理』的な不祥事を防ぐ力はない」 ことをここであらためて再確認したい。

誰かが不祥事を起こすたびに、その所属組織が出す「研究者には高い倫理(観)が求められるのです」 というコメントにも、倫理を〇×クイズで済まそうとするタテマエ主義の嫌な臭いがする。 そもそも「高い倫理」って何のこと?「エンハンスメント」「p-hacking」といった学術用語が飛び交う最先端の倫理のこと? それともカントの義務論に原点回帰するってこと? 誰も分かっちゃいないはず。 「高い倫理観」 って、「遺憾です」と同じ意味不明語である。

不祥事を起こすエライ方々に欠けているのは「高い倫理」ではなく「低い倫理」だと思う。 「弱い人を虐めない」「やたらと威張り散らさない」「ウソをつかない」「破廉恥なことはしない」。 子供が両親や近所のおじさん・おばさんから教わること。 そうした「低い倫理」は、カタカナ語が並んだ倫理研修を受け、確認テストでさっさと100点を取って、「倫理研修受講済み」と研究計画書に記載することだけを目的とする、コスパ・タイパの「小賢しさ」の対極にある。

・・・といったことを研修受講中につらつら考え、先述の問にはあえて「×(誤)」と答えた自分。 むろん不正解であることは分かっている。 が、減点されても研修自体には合格することを見越している自分。 ああ、なんと醜く、小賢しい。

明らかに私の心の中にも、研究倫理の不祥事を起こす「タネ」は、ある。

 

この雑文を書いてから数日後に、検察官が数々の不祥事を起こした検察庁のトップの検事総長が「職員全員を対象にした『倫理研修』を実施します」 と宣言。 検事総長いわく 「検察官には、公私を問わず、一般の公務員以上に高い倫理観を持って自らを律することが求められます」 だそうである。

検察官が最近起こした不祥事、いや、それだけでなく様々な分野のおエライさんたちが起こした不祥事って、ほぼすべて、「高い倫理」じゃなくて「低い倫理 (身体の低い方、つまり胃袋や下半身側の倫理)」を十分に持っていないことに原因があるように思うのだが、それを分かって「高い倫理」という毒にも薬にもならない決まり文句(cliche)を使ってるのだろうか。 死んだ言葉を使う気持ち悪さがないのかね。

もう一つ、根本的にとても気持ち悪いことがある。 それは「高い倫理観」という言葉を使う人たちの選民思想のようなもの。 「俺たちは高い倫理観の世界に生きているんだから、下々の者とは違うんだ」といういやーな感じ。

あたしもあんたもみんな、地べたで這いつくばってメシを食っている市井の一市民である。 欲望も誘惑もあるこの社会で、「あ、甘い汁が目の前に! しかし、ここは誘惑に負けてはいかん。お天道様が見てるから」と歯を食いしばって自分を律する。 それが市井の一市民の道徳・倫理。 女将さん(大地真央さん)が「誘惑に負ける人間か、踏ん張る人間か。 あんたはどっちや?」 と問いかけるアイフルのCMそのものだ。 どうしてその道徳・倫理をまず先に語らないのだろう?  事実上無視するのだろう? 「高い倫理観」などと称して、自分たちに都合のよい別枠の倫理を持ち込むこと自体が相当に不遜である。 「リスク管理」などという斜め上の概念を持ち込むのも同様。

「高い倫理が必要」という宣言は、「自分は何も変わる気がない」 と同義にしか聞こえない。 情けない。  

 

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今頃になって、映画「おおかみこどもの雨と雪」の主題歌、アン・サリーさんが歌う「おかあさんの唄」の素晴らしさに気付く。 聴くたびに涙。

おかあさんって偉大である。 世のお母さんに感謝します。 あなたの子供たちを幸せにしてやってください。 よろしくお願いします。

 


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というわけで、今日はここまで。 Twitter の意味不明な記号のような短文よりはずっと読者の心に届く文章が書けたような気がしてますが、いかが?

これからも、嫌なこと、辛いこと、しんどいこと、痛いことがあって気分が晴れない人たちに向けて、わけの分からん理屈、慰め、気の迷いを書いていきますので、時々のぞいてみてくださいね。 人生が充実してる人、自分は多数派の側にいると信じている人、世間様の流行やルールに粛々と従うことが嬉しくて仕方がない人は、こんなブログ読む必要はないかも。 どうぞ自分の道を歩んでください。

 

「気晴らしにどうぞ」 などと言いつつ、次回はいきなり、圏論の米田の補題(y: Nat (ha, F) → F(a) は全単射)とその薬効評価理論への応用を無慈悲に語り始めたりするかもしれないサル的なヒト。 善良な読者の皆さんも油断しないように。

 

じゃ、またね。

 

おめでたくもない新年

お久しぶり。 新年ですが、皆さんお元気?

こちらは新年早々の講義などを終えて、三連休で一息ついているところ。 最近の米国FDAの動向を講義したのだが、こんなものを教えても受講者が困惑するだけかも、と思う。 現在の米国厚生省・FDAって、もはやまともな規制当局ではない。 常軌を逸した異常な振る舞いをしているので、こちらがどう努力してもまともな講義にはならないのである。

たとえば、米国政府(FDA)が一昨年(2024年)に出した「臨床試験には多様な人たちに参加してもらおう」という趣旨のガイダンス案を、米国政府(大統領と厚生大臣)が「こんなひどいガイダンス、認める気はない」と堂々とホームページで宣言している状況。 事実上の内戦状態 である。 いや、冗談ではない。 マジである。

「日本をこんな惨めな国にしないようにしましょうね」 という内容の講義を少なくともあと数年はしないといけないのかと思うと気が滅入る。 商売とはいえ、こんな哀れな国・連中を相手にしないといけない製薬企業、PMDAの方々も気の毒。

こうした状況で恐ろしいのは、私たちの側の慣れと無関心である。 米国で内戦が起きているという異常事態なのに、こうした頭のおかしい連中の振る舞いにすっかり慣れっこになってしまって、これらの事態を「異常」「常軌を逸した」と記述するのを最近では止めてしまっている気配がある。 「他国の嵐はいつか通り過ぎるから、目くじら立てず放置しておこう」という事なかれ主義が引き起こした20世紀の惨劇を忘れたかのよう。

単に異常事態にうまく適応すれば良い、というものではない。 というか、これまでの平時のドラッグラグの産業論的な解釈すらまともにできないニポン人なのだから、異常事態に「うまく適応」できる能力があるわけがない。 大国アメリカが傾けば、弱小国ニポンのパブリックヘルス(医療・医薬品政策)も誘爆するよ。 もう火がついているかも。 

 

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21世紀の人類って、まだまだ戦争をやり足りない原始人である。 ホント、頭が悪い。 「もう殺し合いにはうんざりだ」と言い出すまでに、あと何十回、いや、何百回戦争が必要なのだろうね。 惨めだね、現生人類。 サル未満。

 

人類には、シンドラーのリストがあと何億ページ必要なのだろう。


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人類は「Merry Christmas, Mr. Lawrence !」と同朋にあと何億回伝えねばならないのだろう。


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「後悔が残るくらいがちょうどいい 春あわゆきのほかほかきえる」 の歌人東直子さんの短編集、「とりつくしま (ちくま文庫)」。

 

死んでしまったあと、あの世のお役人「とりつくしま係」 が、あなたの大切なヒトのそばにある「モノ」にあなたを憑りつかせてくれる、というお話。 ピッチャーマウンドにいる息子のロージンバッグだったり、残された嫁さんの日記だったり。

読んでいて「これは、たまらんなぁ・・」と涙が止まらなくなりますが、それでもおすすめせざるを得ない名作。 あっという間に読み終わるのも良い。

 

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・・・という感じで、なんだか生きる気力すら失われるような新春なのだが、時には楽しいことも起きる。 仕事からの帰り道、ボーダーコリーのかわいいヤツに手をぺろぺろしてもらったり、とか。 サル未満の人類よりもワンコニャンコの方がずっとまともに思える今日この頃。

 

風邪をひかぬよう、お身体に気を付けてね。 じゃまた。

 

11/1のシンポではこんなこと話します

皆さん久しぶり。 お元気ですか。

こっちは例によって気分のよくないことばかり続いていて、げんなり。 サル的なヒトとしては、単に落ち着いて仕事がしたい――たとえば形而上学のモノとコトの概念で薬効評価・エビデンスの世界を再構築できるのではないか、とか、ポランニー的アナキズム医療保険の関係ってどうなってるんだっけ? とか、その手のことをじっくり考えたい――だけなのに、なぜかいろんなノイズがいろんな方向から入ってくる。 いや、「UFOに乗った宇宙人が頭に電波を送ってくる」 といったちょっと楽しいノイズではなくて、現実に起きるいろんなことが時間を奪い、思考の邪魔をして、「落ち着いて何かを考える」ことすら許してもらえぬ状況。 

「大学って物事を深くじっくり考えることを許してくれる場所じゃないんかい!」

と怒鳴り声を上げたくなるが、貧乏人がサラリーマンとしてメシを食うためには、自分の身分保障も必要なわけで、日常の諸事・些事をすべて蹴とばすわけにもいかないのである。

 

40年近く公務員業界で仕事をしてきた自分。 厚生省での最初の勤務日に、「私は公務員として身を尽くして国民に奉仕します」という宣誓書に署名したときに素直に感動し、心が震えたタイプの人間である。 それ以来、公的セクター・規制の効率と分配(倫理)の問題をずっと意識し、忠実に「身を尽くす」を実践し、ついにはそれを(も)研究するのが本業になってしまった。

しかし、皆さんご想像のとおり、そういう生真面目な原理主義者のようなことを堂々と言うヒトには、ほぼ絶え間なく、冷たい視線がしとしとと降り注いでくる。 外からではなく、むしろ内から。 むろん意見してくるヒトの中には素晴らしい人もいて、「うーむ、この人の言ってることはスジが通っていて、深いぞ」と感心することもある。 で、こちらもさらにいろいろ考える。 それが一つの論考になることもある(メシのタネになるので、とてもありがたい)。 でも多くの場合、私に降ってくるのは、単なるいちゃもん。その場の思い付きのいじめ、嫌がらせ。 そして口封じ。 

むろん、そうしたいじめ・嫌がらせの類に対しては、本気で怒りをぶつけ、こちらのやっていることの正当性(背景。法制度や慣習や文化など)、そして「組織・ルールとして、これじゃダメなのでは? こういう改善を検討してみては? 組織の外の人たちには理解されませんよ」 と丁寧に・建設的に応じることはできる。 でもね、それってものすごく時間と手間がかかる。 こっちがものすごく疲弊する。 自分の残り少ない人生の時間をこんな不毛なことのために消費するのかと思うとゾッとする。 だから結局は、ほとんどの場合、問題の本質については一切語らず(多少何かを言ったところで話は通じないのだから)、相手の言うことに合わせて「はいはい、そのとおりですね」とテキトーに相槌を打って、その場をやり過ごすだけ。 (もっとも、あまりにしつこくからんでくる連中とは徹底的にやるけど。)

あーあ。 40年間の虚しさよ。 すまじきものは宮仕え (笑)。 手遅れすぎるけど。

このあたりの状況は後日またじっくり書きますのでちょっとお待ちください。 社会学の重要な研究トピックになっているはず。

 

で、今日は事務連絡。

毎年恒例の医療改革シンポが今年も11/1、2の両日開催されます。

詳細はこちら:

www.genbasympo.jp

 

私もこんな話をします。

 

医薬品行政の定点観測20年 -兵(つわもの)どもが夢の跡-

小野俊介

 

 日本の医薬品行政の流れは、何十年経っても変わらない。 FDAのような組織をつくり、米国と同様の制度をつくる、というただそれだけのこと。 お釈迦様(米国)の掌の上の孫悟空に許される程度の好き放題(抜け駆けというタダ乗りfree riding)はずっとしてきたが、最近のお釈迦様は「お前らが好き放題するのなら、私も好き放題してやる!」と明らかに錯乱しており、ちょっと困ったことになっている。

 

 このシンポでは私も好き放題に私見を申し述べてきた。 が、頑固な性格が災いして、どう努力しても、権力を持った人・エラい人・お金を持った人におもねった意見を吐くことができないのである。 お追従・おべっかの一つも言えぬ自分が情けない。 シンポ主催者の期待に背き続けた20年間で申し訳なく思う。

 

 シンポでは様々な専門家のご高説を拝聴する機会に恵まれたが、そうしたセンセ―方の多くは既にシンポをご卒業されていることにふと気づいた。 医療現場の最前線、利害と欲望が渦巻くテーマを取扱う過酷なシンポなので、戦線を離脱したくなる気持ちはよく分かる。

 

 特にアカデミアの方々の離脱の仕方は洗練されている。この手の「泥沼(quagmire)前線」に延々ととどまるか、あるいは、「氏素性の良い学術、学会・組織での出世、産業界との連携、政府審議会の委員、再就職、そして叙勲」という輝かしい本線を選ぶか。 問うまでもないし、問うてはいけない。

 

 もう一つ、日本には素晴らしい卒業促進ツールがある。 定年という肩たたき。 肩で風切る大センセーも問答無用で組織から追い出される。 「私も来年で定年だから……」と語るときの大センセ―の無念の表情は、特攻を「自発的に」志願させられた少年飛行兵のそれを連想させ、なんか怖い。 むろん私自身もそのうちそうやって追い出されるのだから、ここ数年やる気なんぞ一ミリも出ない。 日本人の仕事への愛着(engagement。職場の仕事に尽くしたいと思う気持ち)がほぼ世界最下位なのも、明らかにこうした背景が関係していると思うのだけど。

 

 20年にわたり、役には立たぬ愚痴をこぼす機会を寛容に与えてくださった「現場からの医療改革推進協議会」と、よくもまぁこれほど頑固に「おエラいさんにはおもねらない(本当はおもねりたくて仕方ないのだけど)」を通してきた自分に、乾杯したい。

乾杯!

 

この要旨から、小野さんが実際どんな話をするのかを予想するなんてまったく無理な気がする。 分からなくて当然である。 なんせ私自身、何を話すのかまだまったく決めてないのだから。

ごめんなさい。 前日、いや、当日の朝までにはなんとかします・・・

 

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というわけで、また次回。 あっという間に、また次回。 今度はちゃんとしたこと書くから、ちょっとお待ちください。

じゃ、またね。

 

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・・・と思ったが、最近読んだ本を1冊くらいは紹介しておこう。 今の私の気分が伝わるかもしれん。

荻上チキさんのこれ。

 

戦前・戦中の、ニポン人のいじめ・意地悪・嫌がらせのひどさの紹介である。 いやはや。 吐き気がするようなおそろしい実例が多数。 徴兵制下における旧内務省(厚生省)の健康施策とその非倫理的な運用・帰結の貴重な情報だけでなく、疎開児童へのいじめ、軍隊におけるいじめなどを詳細に紹介。 読んでいて寒気が走るのだが、これって今現在の職場・学校・体育会系・部活などでのいじめの構図とまったく変わらないのがさらに恐ろしい。

日本社会では、国民のほとんどがいじめに遭い、一方でいじめに加担してるはずである。 が、多くの場合、「いじめ(に加担したこと)」なんてすっかり忘れて、幸せな人生を送っているはず。 でもあらためて指摘するまでもなく、いじめられた側は覚えている。 心に深く傷を負っている。

本書にも、軍隊で上官に理不尽な暴力を受け、殺されかけた(実際に仲間が殺された)方が、「戦後、あの○○という上官を見つけ出し、殺そう、と皆で話していた」と語っていた実例があるが、それが典型例。 いや、この手の話は今の職場でもフツーにある。

昔の・今のいじめられ体験を思い出し、マジでトラウマ感覚が再発し、寝込むことになるかもしれない、そんな危険な本だが、それを覚悟の上でご一読いただくのがよいかも。