小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

オネエ言葉で薬効評価の闇を語らない

・・・ う、う、・・・ う、う、う、 ・・・(嗚咽) ・・・

大学のそばの海鮮丼屋さんでメシを食うと、一食ごとに丼の形のスタンプを一つ押してくれる。 さらに8のつく日には大サービスで、なんと、二つもスタンプを押してくれるのだ。

今日は8日。 ワクワクしながら海鮮丼屋さん行った。 いつもの大トロあぶりサーモン丼を食べ、レジのおばちゃんにお金を払って、「これ、お願いします!」 と良い子の大きな声でスタンプ用のカードを差し出した。 おばちゃんは 「はい、6番のところに押しておきましたよー。 毎度ありがとうございまーす」 とニコニコしながらカードを返してくれた。 

あ、あれ? スタンプ1個だけ? ・・・ 今日は何日だったっけ?? 今日はハチのつく日ではなかったっけ? と思ったのだが、あいにく腕時計もしていない。 も、もしかして僕の勘違いかもしれない。 ス、スタンプ1個なんて、どうってことないよ。 目から涙がじんわり出そうになったのだが、自分の勘違いが悪いことにして、そのまま研究室に帰る。

研究室に戻って、部屋にいる秘書のおばちゃんおねーさまたちに 「ただいま。 今日は海鮮丼食べてきました」 と報告したら、

秘書さん 「えー、小野センセも? 私たちもさっき食べて帰って来たところですよぉ。 だって、今日はスタンプ2倍の日ですからね。 スタンプ2倍の日にしかあの店には行かないんです、私たち」。
サル的 「 ・・・ ぼ、ぼくは、なぜか1個しかスタンプ押してもらえませんでした ・・・」
秘書さん 「なにぃ!? もぅ、気が弱いんだから。 私たちが今から一緒に行って、押してもらうようにお願いしましょうか?」
サル的 「い、いいです。 もういいんです。 放っておいてください ・・ う、う、・・・(冒頭へ)」

サル的なヒトは 「スタンプが一つ足りないんじゃないですか?」 という台詞をどうしても発することができないのだ。 レジのおばちゃんの機嫌を損ねるのが怖くて、それが確認できないダメ人間なのである。 もう50歳を過ぎてるというのに。 生存能力が著しく劣っていることは自覚している。 絶滅寸前なのは当然である。

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今日の記事は、これの続編ですよ。 → 「本当に分からない」 と 「本当は分からない」 - 小野俊介 サル的日記

お薬の薬効評価や承認審査の世界のプロが使う言葉・文章って実にいい加減で、わけが分からないことについては、これまでもいろいろ書いてきた。 最も象徴的なのが

「薬Aが効く」

という文章ね。 「薬Aが有効である」 「薬Aは有効性が検証されている」 など、バリエーションは山ほどあるが、基本形は同じ。 「薬Aが安全である」 も同じ形です。

この文って、真か偽かが問いようがない、不完全な文なのよ。 「真とか偽とか言われても、ワシャ素人だし、よく分からんなぁ」 と思うかもしれんが、簡単である。 たとえば 「1+1は2である」 は真(true)。 「太陽は西から上る(細かい条件等は略)」 は偽(false)。

「薬Aが効く(効いた)」 を見てください。 「A」には、皆さんの知ってる薬の名前を何でもいいからテキトーに入れてみよう。 ロスバスタチンとか、オプジーボとか。 で、この文の真偽なのだが、皆さん、答えられますか? もし誰かが 「ねぇ、ロスバスタチンって効くの? ねぇ、効くの?」 としつこく尋ねてきたら、イラッと来ませんか? きっとこう言いたくなるでしょ? 「誰に (何に、どの病気に) だよ?」 って。

そのイライラは論理学的に当然なのである。 「薬Aが効く」 は、そもそも、まともな文、つまりちゃんとした論理学的な命題になってないのだから。 「薬Aが効く」 と同様に、真偽が問えないイライラする不完全な表現の例はいくらでも挙げられるよ。 たとえば、

「私(医師) は治す」

もそう。 白衣を着たオッサンが 「へへへ。 私は治すよ。 治すのじゃー!」 とか病院で叫んでいたら、完全に危ないヒトだ。 危ない、と思うのは、言っている文の内容が変なのではなくて、それ以前の問題、 「口から出ている台詞が文なのかどうなのかが分からない」 という怖さである。

他にもたとえば、「私は (将棋の) 対局する」 という文も、対局相手がいるのかいないのか分からなければ真偽が分からないよね。

では、これらはどうすれば真偽が問える、まともな 「文」 と呼べるモノになるか? 答えは、先ほどのイライラしたヒトの言うとおり、

「薬Aが 田中さんに (○さんに) 効く」

とすればOK。 これではじめて文の意味 (真偽) を問うことができる。 「佐藤医師は 木村さん (の腰痛) を 治す」 「羽生さんが 渡辺さんと 対局する」 となったら、ほら、「はい、そのとおりです(真)」 「いいえ、それはウソです(偽)」 と答えることができるでしょ。

このように、二つの項の関係があってはじめて意味が問えるのであれば、その二項関係を明確にした記述をしないといけないのである。 当然だよね。 論理学では、たとえば 「a が b に効く(E)」 については Eab ってな感じにして、二項述語の世界で扱う (注: 他にも扱い方はある) のだが、ややこしいことはいいや。 

皆さんが知っておくべきこと、それは、「この薬は有効です」 「あの薬は安全です」 「この薬剤の有効性は検証されています」 といった、医薬品業界でよく見かける文章 (もどき) が基本的に意味不明、つまり、正しいとも誤りとも言えないような怪しい代物であるということ。

たとえば、「○○ワクチンが安全である」(あるいは逆に 「○○ワクチンが危険である」) を出発点にして何かの主張 (「こんな副作用は起きてはならない」 とか) を導いたとしても、その主張は虚しい、無意味なものにしかならないってこと。 だって、出発点が意味不明なんだもん。

で、私が恐ろしいのは、それらが意味不明であることを薬のプロがほとんど意識していないという事実だったりする。

HPVワクチンの混迷の背景に、今日ここで述べたどうにもならない闇が広がっているのは皆さんもうご存知のとおり。 当事者間で通じる言語がないという悲劇と言える。

また、「人類みな兄弟。 だから効く薬は、世界の誰にでも効く (に決まってる)」 なんていう単なる仮説 (注 1) から、あたかも論理学的 (演繹的) に 「だから日本人にも効く (に決まっている)」 が導けるかのような錯覚をしたり (注 2)、それを前提にしたガイドラインを平気で作ってしまえるのは、こうした背景があるのではないか、と社会学的に推察してるのよ。 だって、業界人の皆さんって 「薬は ○○に 効く」 の「○○に」 が無くても何十年も平気で生きている、相当に不思議な人たちなんだもん。 中には確信犯的にその 「○○に」 の項を避けている業界人もいるけどね。

(注 1) 「人類みな兄弟」 仮説は、確率的な方法論(つまり統計学ね)を用いて実証的に検証すべき仮説 (群) である。 細かな仮説に応じていろいろな結論(真偽)が疫学的に・実験科学的に出てくるのだろうし、それで健全。 宗教的信念のような取扱いをしたり、推論における真の前提扱いするのは、不健全。

(注 2) ちなみに、タブローで確かめてみればすぐに分かるのだが、「お薬を飲んだヒト(例:日本人) の中に効く人が存在する」 すら、それが論理的に満たされるには、存在措定を含め、厳しい条件が必要になる。 「へー、そうなんだ ・・・」 と呆れるほどである。

実は、ここはまだ薬効評価の闇 (いい加減さ) のほんの入口よ。 今日の話は、さらに様相論理的な闇につながっていくのよね、フフフ ・・・ (つづく)。

・・・ とまぁ、なぜか最後はオネエ言葉になりながら、理屈っぽい話を長々としてしまった。 すまんかった。 この論理学シリーズ、この先も時々やるから、覚悟しておくように ・・・ あ、読者がまた一人逃げた。