小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

ChatGPTの中のヒトはニポンのお役人 説

三月になってしまいました。 皆さんお元気?

毎年のことだが、春はどうもメンタルがやられてしまう。 現在進行形で起きている身の回りの変化をすんなりと受け流すことができなくなってしまう感じ。 一つ一つの変化は、誰にとっても (むろん私にとっても) 喜ばしいはずの出来事なのである。 たとえば長いこと一緒に苦楽を共にしてきた学生やスタッフとの別れ ー卒業や新天地への旅立ちー とか。 でもそうした変化・出来事の残響のようなものが、喉に刺さった小骨のように頭からいつまでも抜けない。 

その人たちと過ごした日々を思い出し、「あの時、あの人にこう寄り添うべきだったのかも」「あの時、あの人が打ち明けた悩みをもっと真剣に聞いてあげていれば、『今』 の姿は違ったのだろうか・・」 などと考え始めると止まらなくなり、とても苦しい。 今さら苦悩してみたところでどこにもたどり着けやしないことは分かってるのだけど。

迷走しながら思い浮かべるのは 「出会いは別れの始まり」 という身も蓋もない人生の真理だったりもする。 そこまでいくともはや誰の手にも負えぬ。

喪失の物語に取り憑かれちゃっている。

でも昔から僕はこうなのだ。 特に春のこの時期はそう。

 

モヤモヤしてどうしようもないから、毎晩、大学の構内を小一時間ランニングすることにしたのである。 薬学部を出て、東大病院前のバス通りから生協の本屋あたりを左折し、安田講堂を抜け、図書館から薬学部へ戻る経路を何周か走る。

絶望的な気分を抱えながら真っ暗な大学構内をやみくもに駆け抜ける。 やけくそランニング。 ランニングって本来は健康増進に役立つはずなのに、なぜか健康のニオイが一ミリもしない(笑)。 

で、ご想像のとおり、ランニングでは気分はまったく晴れないのだが、僕をかわいそうに思ったらしい神様は一つだけご褒美をくれた。 それはランニング経路で出会う猫。 バス通り沿いの古い、歴史ある赤レンガの建物の下あたりで、時々、ハチワレの白黒の猫が僕を待っていてくれるのだ。 メンタルが弱った僕を救ってくれている。 ホントの話である。

 

*****

 

その白黒のネコは、建物下の暗がりからランニング中の僕を冷たい目で見上げて、

「あんた、ちゅーる は持ってるか? え、持ってない? 生協で売ってる魚肉ソーセージでもいいんだが ・・・ まぁいいや。 次に会うときは忘れずに、な」

と突然話しかけてきた。 驚いている僕に

「あんたさ、毎日暗い顔してこのあたりを走ってるな。 いつもここで立ち止まって、二階の窓の灯りをじっと見つめてるだろ? なんかワケありだな? オレでよければ話を聞こうか?」

と言った。 不思議なことに、僕は何の躊躇もなくごく自然にそのネコに、

「この春はいろんなことがあったんだ。 つらい別れもね。 僕にとってとても大切だった人たちともう心を通わせることができないことが寂しくて仕方ないんだよ。 僕が今ここでその人たちの幸せをいくら思ってみても、その思いは十分の一くらいしか相手には伝わらない。 まったく伝わらないかもしれない。 そのことが、いつもの春よりもなんだか辛くてたまらない」

と答えて、ため息をついた。

「ははは。 あんたって哀れなバカだなぁ。 それは、思いが伝わらないんじゃなくて、その人たち、あんたの思いなんか端(はな)から聞く気がないんだよ。 ほれ、昔の歌で 『♪ 男はロマンチスト 憧れを追いかける生き物』 ってのがあったろ? あんたは、相手を勝手に理想化して、なんでも互いに分かり合える人にしてるんじゃないか? でもね、そんな相手は現実にはいやしないんだ。 幻を見てるだけ」

と、ネコは僕を鼻で笑った。

「その連中、きっとあんたのことを 『困ったときになぜだか助けてくれるお人好し』くらいにしか思ってないぜ」

口が悪いネコだ。 なぜネコに人間がここまでバカにされねばならないのだろう。 でも言ってることはそのとおりかもしれない。 僕の一方的な思い込み。 「人というのはこうあってほしい」 という憧れと願望を相手に一人相撲してるだけ・・なのかな。

対岸の緑色の灯火 -憧れのヒトが住む対岸のボート置き場の灯りー を夜ごと見つめていたギャツビーのように、僕は暗闇の中で、赤レンガの建物の二階の窓から漏れ出る白い灯りを仰ぎ見た。 もはや手の届かないところにある、手放してしまった優しさの淡い輝き。 ・・・いや、違う。 僕が見てるこの灯りは幻などではないはずだ。

白黒のネコは、僕の目から涙がこぼれ落ちるのを不思議そうに眺めながら言った。

「情けない顔するなって。 いい年したおじさんが幻を見て泣くんじゃないよ。 通りを歩いてる学生が不審な顔をして振り返ってるぞ」

「う、う、うぐっ・・・ ねぇ、白黒ネコくん。 もし ・・ もし、あの灯りが君が言うような幻じゃなくて、ホンモノだったら?」

「あんたも呆れたロマンチストだなぁ。 幻だろうとホンモノだろうと、失ったものは元には戻らない。 気の毒だがな。 あの灯りがあんたにとって大切なものだとしたら、あんたはそれを決して手放すべきではなかったんだよ」。 

 

二階の窓の白い灯りを再び見上げながら、僕はそのまま身動きすらできずにいた。 そんな僕の傍らで、白黒のネコは夜空に浮かぶ下弦の月に目をやった。 そして、落ち着いた声でこう呟いた。

「・・・けどさ、あんたは、届かないあの灯りに毎晩手を伸ばし続ければいいんだよ。 これからもずっと。 あの灯りを信じて。 『ある晴れた朝に、きっとそれは戻ってくる』 と信じて生きてみたらいいのさ。 願いが叶おうが叶うまいが、そうやって一途に憧れを追い続けるのが人間という生き物なんだろ?」

このネコは見かけよりずっと長生きしているのかもしれない。

「あ、それと、次に来るときには ちゅーる、忘れるなよ」 

そう言い残すと、白黒ネコは赤レンガの建物の地下階、漆黒の暗闇に吸い込まれるように消えてしまった。

 

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後悔が残るくらいがちょうどいい 春あわゆきのほかほか消える

(東 直子)

 

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去る者は日日に疎し。 Out of sight, out of mind.

親しい者でも、顔を合わせなくなると、日が経つにつれて疎遠になっていく、ということ (コトバンク

 

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この春、いろんなところに旅立つ・旅立った皆さん。 お元気で、幸せに生きていってください。 

僕は大学の片隅のちっぽけな研究室で一人やさぐれながら、懐かしい歌を口ずさんでいます。

 

♪ 人の不幸を祈るようにだけは なりたくないと願ってきたが

今夜おまえの幸せぶりが 風に追われる私の胸に痛すぎる

中島みゆき 「怜子」)

 

煩悩まみれのおじさんとしてがんばって生きてみます。

 

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久しぶりに読み返した The Great Gatsby が呆れるほど心に沁みる。 きっとあの白黒ネコもこの本のエンディングに涙したに違いない。

 

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いわゆる対話型AI、ChatGPTについて少々。

メディアで大騒ぎしてるので、私もためしにいろいろと話しかけてみたのである。 日本語にはやや難があるらしいので英語で。

で、二日間くらい会話しまくった私の印象は 「ChatGPTさんって、ニポンのお役人とそっくり」。

とても優秀ではある。 質問に対して、そつなく、いい塩梅でそれらしい答えを返してくる。 質問をだんだんと理屈っぽく、ややこしくしていくと、一応は質問の意図(ややこしくしようとしたポイント)に応じて答えの表現を変えていく賢さ(ずる賢さ)は持っている。

だけど、危ないのはそこから先である。 ChatGPTさんって、本質的に分からないこと(例: 論理的に答えられるはずのない問題、科学が追い付いていない問題、事実が確認されていない問題) にまでそれらしく答えたような顔をしてしまう。

たとえば「製薬企業はランダムサンプリングを一ミリもしていないのに、中心極限定理を使った分析をして平気な顔をしてるのって、変じゃない?」 と尋ねたら、「はい、あなたの言うとおりです。 患者数が少なかったり、倫理的にランダムサンプリングできないことがあります。 ランダムサンプリングを要しない分析方法もあります。たとえば○○法、××法など」 ・・・ ?? 「いや、そこは質問のポイントではないぞ。 どうして論点をずらすのだ、あんた?」とイラっとする。 表現を変えて同じことを何度も尋ねたが、帰ってくるのは上の回答の単なる再構成。 堂々巡り。 イライライラ・・・

要は、製薬業界の薄っぺらい常識や言い古された決まり文句(cliche)以上の答えは出てこないということ。 業界・学会のタブーになっていて、過去に誰も本気で議論したことがない問題については、ChatGPTは当然ながらまったく何も答えを持っていないということである。

つまり、学生が、私の出題する試験問題やレポート課題を、ChatGPTを使って答えようとしてもほぼ無駄だってことがよく分かったのであった。 一安心である。

ちなみに Harvard の Pinker 先生(有名な心理学者)も ChatGPTでいろいろ遊んでみたそうで、

「ある日の午前 9時と午後 5時にメイベルさんは生きていた。 彼女はその日の正午に生きていたかな?」

と尋ねたら、ChatGPT君は

「メイベルさんが生きていたかどうかははっきりしません。 午前9時と午後5時に生きていたことは分かっていますが、正午に生きていたかどうかについては情報がありません」 と答えたそうな。 うん、これもChatGPT君の答え方の特徴。 「生きている alive」 って述語の意味がまったく分からないのに、「分からない」 とは答えない。

・・・ で、以上をまとめると、ChatGPT君って、お役人の答弁とそっくりだとは思いませんか? 答えているようで何も答えてなかったり、表現を変えて同じ内容を何度も繰り返したり、本来分かるはずのないことにそれらしい答えもどきをしたり。 分からないことを「分からない」 と答える能力がなかったり (「分からない」 は 「分かる」 よりずっと難しい述語かもしれないけど。 すぐに無限論のパラドクスのどれかがさく裂しそうな気がする)。

というのが、現時点での私の印象である。 こうしたAIって、当然これからさらに進化はするだろうから、楽しみではあります。 あと、今回私が試した、相当にお行儀のよい振る舞いをするように制約がかかっている ChatGPTではなく、質問者に対して悪態をつくと大評判の、マイクロソフトの Bingってやつの方が遊ぶには面白いかもしれません。 お試しあれ。

 

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ふー。 今日はここまで。

メンタルが弱くなっているのにここまでブログ記事をちゃんと書けた自分を褒めてあげようと思う。

さて、外は真っ暗になった夜8時。 これからいつものように、やけくそ構内ランニングに行ってきます。

じゃまたね。 皆さんも健康に気を付けてね。

 

・・・ あ、なんだかまた寂しい気持ちがぶり返してきたよ。 今日はニャンコだけじゃなくてお月様にも相談してみるか。

 

 

シュガ シュガ ハニー パンプキンパイとシャウトしない

シュガ シュガ ハニー パンプキンパイ

ベイビー イフ ユーリーブ アイ ゲス ユールダイ 

シュガ シュガ ハニー キャンチューシー

ユーキャントリブ ウィズアウト ミー ♪

 

・・・ ってかぁ? 

 

などと深夜のオフィスで、懐かしくかわいらしい曲をご機嫌で口ずさみながら仕事をしているサル的なヒト。 こういう態度を、正確な日本語では「やけくそ」あるいは 「投げやり」 と表現する。 人類の知の蓄積のために、死ぬまでにやりたい仕事は今現在少なくとも17個はあるのに、今日もまたそのいずれにも手をつけられず、事務的な雑用を片付けるだけで一日が終わる大学での生活。 こんなのやってられるかい! と思いつつも、その雑用とやらを代わりにやってくれる人は存在しない。 だから、深夜のオフィスで大声で歌いながら仕事をしてるのだ。

それはともかく、この曲(Cultured Pearls の Sugar Sugar Honey)、大好き。 かわいいよね。 20年くらい前によくラジオで流れていたっけ。 こういう能天気な色恋の歌が還暦近くなっても頭から離れない。 魔法使いのきれいなおねえさん ・・ たとえば TBSアナウンサーの山本エリカ様のような ・・ を思い浮かべながら、ムフフ、ムフフ ・・・ などと妄想にふけるのは楽しいぞ。

ほれ、皆さんもご一緒に。 ジジイもババアも恥ずかしがらずに口ずさもうよ (笑)

 

♪ Sugar sugar honey pumpkin pie

Baby if you leave I guess you'll die 

Sugar sugar honey can't you see

you can't live without me  ♪

 

ところで歌詞のこのセリフ、男の側の台詞か、それとも逆に魔女の側の台詞か、どっちなのか知ってる人いますか? どっちの台詞かでニュアンスがまったく変わってしまうよね。 知ってる人、教えてください。

 


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この曲を歌っているおねいさん(Astrid North)は、2019年に45歳の若さで亡くなった。

45歳。

結局今日もまた、深夜の研究室で一人、シクシク泣いてしまうのである。

 

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最近読んだ本の紹介。 まずは分かりやすいやつ。

 

ラジオで作者の大白小蟹さんが宇多丸・宇垣美里さんと対話していたのを聴いて、真面目・朴訥で飾らない語り口がとてもよくて、こういう子ならきっといいマンガを描くに違いないと思ったのである。 想像どおりだった。 素晴らしい。

重いお話群ではない。 一見して軽い、若い子たちのお話(恋愛話)なんだけど、おじさん・おばさんの心の琴線も震わせてくれます。 色恋に年齢は関係ない。 加えて、この若い作者って、たぶんほとんど無意識のうちに、人生の深淵に立ち入っているのよ。

このマンガ、ささっと読めば10分で読めます。 でも、そういう読み方はしないでね。 お気に入りのコーヒーでも淹れて、お気に入りの椅子で、お気に入りの曲を聴きながら、そして、一話一話お休みを入れながら、二時間くらいかけて読みましょう。 「大白小蟹」 ワールドにどっぷり浸ることをお勧めします。

まさか健気(けなげ)なストーブに涙するとは思わなかったよ。

 

すみません、と素直に謝っておく。 こんなに面白い本を今まで読んでませんでした。 だいぶ前のベストセラー。 変わり者の冒険者のお兄ちゃんがアラスカで餓死するまでの人生をたどったノンフィクションなのだが、この事件が起きたのは1992年。 遠い昔ではない。 現実に私も暮らしたことのある、あの頃のアメリカなのである。 懐かしさがこみ上げてくる。

で、一般の読者が楽しむのは、この変人のお兄ちゃんの常識外れの生き様、常軌を逸した(独立していることへの)こだわりだったりするのだろうが、私はむしろこの主人公がごく普通の若者であったことに感銘を受けたのである。 人としての根っこは私も彼と同じ。 孤独だけど心優しく、哀れみや施しを嫌い、他人に無償の愛情を注ぐことを善しとする青年。 そういう一人の「普通」のお兄ちゃんの人生の軌跡を、作者がやさしく丁寧に追ってくれたことに感謝したい気分になったのである。

クラカワーさん、新作が出てるらしいから、そっちも読もうっと。

 

前の二冊と違って、この本を読むとフラストレーションがたまる (この本はすばらしいのだけど)。 くだらないニポンの国会での醜い言葉遣いを分析したもの。 「記憶にございません」「誤解を招いたとすればお詫び申し上げたい」「遺憾である」「仮定の話にはお答えできません」「野党は批判ばかり」「あってはならないことです」「必要に応じて適正に対処してまいりたい」・・・ にイライラしている人は、ぜひどうぞ。

自分が自分の話していることを理解していなくても務まるのが、国会議員と政府参考人(お役所の局長さんとか)。 

 

黒川清先生の若者への檄文である。 どうしようもないニポンの古いおっさん連中なんか相手にするな。 忖度するな。 堂々と世界で戦え。 出る杭になれ。

いろいろな機会に黒川先生にはご指導いただいたり、時に一緒に仕事をしたりもしたのだが、私のようなチンケな役人・学者に対しても例の大きなハキハキした声で、ニコニコしながら端的に正論を説いてくれるのがとてもうれしいのである。 こちらが日和ったり、忖度しているとすぐに突っ込まれる。 皮肉な笑顔で(笑)。 この本に書いてあることそのままを、いつも実際に口に出しているのが黒川先生。

 

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というわけで今日はこの辺で。

今、ChatGPTというAI対話ソフトにはまっているので、次回はそれについて書きます。気が向けば。 

じゃまたね。 まだ寒いけど、なんか春の気配はしてる。 木の芽がモコモコとしているのが、これまたかわいい。

 

東急本店さん、さようなら

シクシク・・・シクシク・・・

 

サル的なヒトは今日も夜の大学のオフィスで一人泣いておる。 なんで泣いているのかというと、本日、1月31日をもって渋谷の東急本店が閉店するから。

「ん? 貧乏人の見本のようなアンタが、松濤の金持ち御用達のあの百貨店と一体何のつながりがあるんだ?」 と不審に思われる読者もおられよう。 確かに、私が東急本店で買えるものは、7階の丸善ジュンク堂書店の本と地下の出入り口そばにある和幸のコロッケと一口ヒレカツしかなかったことは事実である。 和幸のコロッケを買って帰ると家人の機嫌がよくなるので、たまに買って帰って点数稼ぎをしてました。

が、私がシクシクしてるのはその買い物の場が失われたからだけではない。

悲しいのは、昭和・平成の時代のシンボルがまた消え去ったから。

ほれ、映画好きなら東急本店や東急東横店が盛大に登場する、バブル全盛期の映画があったこと、思い出したでしょ? そう、川島透監督の 「チ・ン・ピ・ラ」(1984)。 若きジョニー大倉柴田恭兵がヤクザの下っ端のチンピラとして渋谷の街を駆けずり回って、恋をして、人生を懸けた大博打をして、・・・って映画。

 


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名作・大作ではない。 佳作というわけでもあるまい。 でもね、「時代」の映画なのよ。 あの頃の空気が満ち満ちていたのである。 同時代を生きた僕らにとっては素晴らしい映画なのだ。 点数をつけるとすれば 500億点である。 誰にも文句は言わせない。

で、その映画のラスト近くの決定的なシーンが東急本店の玄関前なのである。 東急本店前の路上で銃撃を受け、血まみれになって倒れる二人。 う、うわぁ・・  で、その先どうなるのだ? ということになってしまうのだが、続きはネットでうまいこと探して見てください。 

そういうわけで、東急本店は、長い間、僕にとって憧れの聖地のひとつだったのである。 ちなみに、その映画に何度も出てくるデパートの屋上は東急東横店の屋上だった。 主人公の二人はチンピラ。 本物のヤクザじゃない。 だから家族連れの買い物客と一緒に、デパートの屋上にいるのが好きなのだ。 そんな設定もとても良かった。 その東急東横店も2年前に閉店。 あの屋上はもうこの世界のどこにもない。

人は自分の憧れが失われるのをただ見守ることしかできない。 ギャツビーにとってそれは、どんなに手を伸ばしても、いつでもその少し先にある対岸の緑色の灯(The Great Gatsby)。ヌードルスにとってそれは、パイプドリームに現れる少年の仲間たちとの日々(Once Upon a Time in America)。 僕らが住んでいる世界の、そうした摂理のようなものが無性に寂しく、悲しい。

だから都会の片隅でちんけな日々を送る僕も、シクシクと、夜のオフィスで一人ぼっちで泣いている。 

 

シクシク、シクシク・・・

 

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川島透監督にはもう一作、「ハワイアン・ドリーム」(1987) というやはりバブル全盛期の映画がある。「チ・ン・ピ・ラ」 の続編的な位置づけ。 こっちはちょっと内容がひどくて正直おすすめできる代物ではないのだが、その主題歌を竹内まりやさんが歌ってた。 バブルとはまったく無縁の貧乏学生だったのに、なぜこんなバブリーな曲が心にしみるのだろうなぁ、と不思議に思いながら、今でも繰り返し聞いてしまう。 これも時代を生きた証。

 

Baby baby, close your eyes

Go back into your endless dream ... 

 


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そんなわけで、今日は悲しい気分が抜けないので、これで終わるね。

東急本店さん、昭和、平成、令和と僕らの時代と共にあってくれて、ありがとう。 コロッケと一口ヒレカツを時々買っただけで、ごめんね。 和幸のスタンプカード、10個で終わっちゃったけど、捨てないで取っておくよ。 もう少しして僕があちらの世界に逝ったらたくさん買い物するから、そのときに盛大にスタンプ押してください。 あ、あれ、どうして涙がまた出てくるんだろう・・・ 僕はもう立派なオトナなのに。

いや、オトナだから、か。

 

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じゃまたね。 次回は、また元の理屈っぽいサル的日記に戻ります。 有効性の形而上学について語ったりします。 たぶん。

医事新報で連載が始まったので、そういう話も。

 

嘘だろ? 嘘だろ? 今何年だよ、神様 ・・

月曜深夜。 布団の中で伊集院光の 「深夜の馬鹿力」 をウトウトしながら聴いていたら、おねえさんの力強い歌声が聞こえてきた。 すーっと景色が透明になって、声だけが頭の中で響きわたる。

♪ 

教室の窓から眺めていた 雨にさらされたグラウンドのボール

黒板の世界地図じゃ どこへも行けなかった。

どうにもならないことを知って どうしようもないこととそっぽ向いて

それでもあきらめきれずに みんな大人になった

 

高層ビルに旅客機が突っ込んでいくところを 震える手を押さえながら

ただ見ていた

警報が鳴り響いて海が街を飲み込んだのは もう10年も前のことなんだね

今じゃこんな大都会だというのに 病床が足りないんだという

 

嘘だろ? 嘘だろ? 今何年だよ 神様・・

 

あの空の向こうに消えた夏も 何も言わず降り続く雨も

本当はどこへ行ってしまったの?

声がかれるまでずっと歌って それでも涙が止まらなくて

あの世界地図の広さが 今は分かるよ ・・・

 

おがさわらあいさんの 「ちっぽけなぼくらの世界地図」。


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なんだ、これは? 一体なんなんだ? 悔し涙が止まらなくなって、眠るどころではない。 どいつもこいつもふざけやがって。 僕らだって子供の頃には、自分たちがこんなふうに愚かな大人になってしまうとは思ってもみなかったのだ。

夢の未来図どころか、普通の未来図すら描けない大人たち。

市民が住む市街地にミサイルを撃ち込み続ける頭のいかれた連中。

それを見て、どこかの国のミサイル基地に先制攻撃できるよう準備をしておけば平和が保たれると急に声高に叫び始める連中。

修学旅行中に金持ちの子にだけ配られる政府からのお小遣い。 別室に連れていかれる貧乏人の子どもたち。

三、四百円の学食の定食が高すぎて食えず、腹をすかせてる貧しい大学生たち。

ただただ情けなくて、悲しくて、涙がこぼれる。

 

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というわけで、皆さんお元気ですか。 僕は元気じゃないけど、なんとかやってます。

 

大学は博士学生の発表会が先週行われたところ。 緊張のせいでいつもより1オクターブくらい高い声で発表してた学生さんたち、お疲れさまでした。 もっとも最終論文を仕上げて提出するのはこれからなのだから、引き続き頑張ってね。

プレゼンの出来はみんな違うのだが、プレゼンよりもはっきりと学生の実力が見て取れるのが、質疑での受け答えである。 正確に言うと、受け答え以前の 「質問の日本語(英語)の文章の意味をきちんと理解・解釈できるか?」の力に大きなばらつきがある。 日本語・英語の力です。 皆さん、総じてちょっと情けないレベル。

ほとんどの学生さんって質問したことにまともに答えられない。 「正解を言えない」 ではなく 「質問の意味が分からない」 のである。 たとえば 「君の研究におけるその観察項目の示す意味が分からない。 それは一体何を表してるの?」 との質問に、「この観察項目に意味がないと私としても困るので、意味があるという前提でこの研究を行いました。 それが何を意味するのかの確認はしてません」 と堂々と答えた学生がいたっけ。 笑い話ではなく、実話である。

質疑どころか対話にすらなっていない。で、まったく無意味な、そんな虚しいやりとりをしてるうちに時間切れ、「はい、お疲れ様」 で発表は終了。 最近の学位審査の発表会ってそんなのばかりで、正直げんなりである。 

で、こうした状況が、博士発表会などという緊張の場だけではないから困ってる。 毎週のセミナーや日々の面接指導でも、まともな対話・会話がほとんど成り立たないという悲惨な現状。 私と学生さん(ほとんど社会人)の間だけでなく、学生さん同士の間の対話もお互いが何を言ってるのか分からないまま終了してる。 対話もどきの最後に 「的確なご指摘、ありがとうございます」 なんて社交辞令を皆が言うのだが、後で確認すると、お互いの言っていることが通じてないことがほとんど。

あーあ。 情けない。 国会で盛大に繰り広げられている議員・お役人連中の質疑もどき(言語的に意味をなさない発話行為)を真似してどうする。

これって一言でいうと、自らが取り組む学問領域の勉強を本気でしていない、ということに尽きるのだろう。 がんばって勉強しようよ。 製薬企業やお役所やコンサル会社で日々仕事をしているだけでは決して身につかない 「技(=知恵、概念)」 を皆さんは学ばないといけないのよ。

 

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2015年から7年間一緒に研究室を支えてくれた秘書のKさんが11月で退職。 企業向けの研修コース(RC)の事務局でも主役で頑張ってくださいました。 ほれ、会場の受付でニコニコと受講生の皆さんの世話をしてくれた、あのおねいさんですよ。

7年間ってあっという間である。 「ああ、そういえば 2015年の春、バス通り沿いの散りかけた桜の木の下で、ピザとイチゴを用意して、秘書さんたち、学生たちと皆でお花見をしたよなぁ」 などと遠い目になる。 あの日は早春の風がまだ冷たく、しかし、陽射しはまぶしかった。

二年半前の春、コロナの緊急事態宣言が出たときには、「RC研修、そもそも開講できるのか? 本年度は中止か?」 と皆が青い顔で右往左往しましたなぁ。 研究室スタッフで慣れない初めてのオンライン会議をしたのも良い思い出である。

Kさん、学生の世話から研修の世話まで、本当にありがとうございました。 とても頼もしい戦友でしたよ。 みんなで鰻を食べる会、また誘うからね。

 

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最近読んだ本を何冊か紹介。

 

東大駒場の英語のガリー先生の英語エッセイ。 「Native speaker」 であること、母語を話し、操ることの意味を面白く考えさせる。 ガリー先生がインドの英字新聞を読むのに、辞書を引かなければ意味が分からない「英語」が使われていたことにショックを受けた件には大笑い。

 

量子力学の「波」(シュレディンガー方程式)として存在する粒子の状態について、誰か(人間)がそれを観測することで一点に収束するという(主流の)コペンハーゲン解釈に対して、著者の和田先生は 「多世界解釈の方がより良い説明となる」 と主張。

一般的な確率解釈ともつながる話なので、興味深く読めます。(ただしこの手の理屈っぽい話が好きな人限定。)

 

ただただ涙があふれてしまう表題作(「花まんま」)。 全編とおしての昭和の匂いがたまらない。

 

あのシーナさんがおじいさんになって、コロナで死にかけたりして、そのヨロヨロした感じのぼやきがたまらない ・・・ という朝日新聞の書評どおりの本。 シーナさんってエッセイの達人なのだが、もはや仙人の域に達している気がする。 

 

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本格的に寒くなってきたので健康に気を付けてのんびりやりましょう。 読まねばならない 学生の論文が年末年始はなぜかたまってしまうのだが、見なかったことにしてしまえばよいのである。 量子力学的にはそれですべてOKだ。

 

ではまた。 今年もたくさんの人たちが去っていった。 心寂しい年の瀬。 「寂しくない、寂しくない ・・ と心の中で呟いていればホントに寂しくなくなるのかなぁ」 などと幼児のようなことを、独りぼっちの夜の大学のオフィスで、思う。

 

日曜日の夜に寂しくならない

♪ 公園のベンチで僕は

過ぎた愛の哀しさを数える

ひとりそんな午後

 

別れた人の横顔を

思い出せばいつも 涙顔

Sunday Park

 

初冬。 なんか寂しい日曜日の夜。

「日曜日の夜って寂しくて仕方ないけど、オトナになったらきっと寂しくはないのだ」と信じていた子供の頃。 が、期待に反して、大人になっても寂しいままである。 泣きたくなるくらい寂しい。 今となっては 「今よりもっとジジイになったら日曜日の夜は辛くないはずだ、きっと」 と信じるしかないのだが、どうも人生はそれほど甘いものではないらしいことが最近分かってきた。

年齢を重ねると、重ねた分だけ喜びと哀しみが積み重なるのは当然のこと。 それは仕方がない。 さらに因果なことに、数十年間、私たちは自分の体験・現実世界の出来事だけじゃなくて、虚構(fiction) の世界の喜びと哀しみ、そして絶望までもたっぷりと背負ってしまっているのである。 ほら、思い出してごらんよ。 無数の情景がよみがえってくるではありませんか。

  • 燃え尽きる寸前の命でデッカードを救ったロイ(Blade Runner
  • 夏になると倉庫のある階段に座って海を眺める「僕」(風の歌を聴け
  • ゴミ収集車に飛び込んで死んだマックス。 そしてヌードルスのパイプドリーム (Once Upon a Time in America)
  • 「私は善い人間になれたのだろうか」 とミラー大尉の墓前で妻に問うライアン老人 (Saving Private Ryan)
  • 無数のゾンビが徘徊するショッピングモールに鳴り響く時報の鐘(Dawn of the Dead
  • アルフレードが遺した形見のフィルムに涙するサルヴァトーレ(New Cinema Paradise)
  • 「人生はチョコレート箱」と呟き子供をバス停で待つガンプ。 空に舞い上がるひとひらの羽根(Forrest Gump)
  • 分岐したもう一方の道にいるミアに向かってピアノを演奏するセブ(LaLaLand)
  • ジャックとの別れ際に、自虐的にCMソングを歌うスージー・ダイアモンド(Fabulous Baker Boys)

・・・ い、いかん。 書いていて筆が止まらない。 涙も止まらない。 ので、このあたりにしておく。 こうした虚構世界がその住人とともに、私の現実世界、家族、友人と同じような存在として僕の心の中に間違いなく存在しているのだ。

日曜日の夜、哀しい気持ちになると、つい彼ら(ゾンビを含む)の人生にまで思いを馳せてしまい、深いため息をついてしまう。 なにも彼らのためにそこまでしなくてもよいことは分かっているのだが、そこまでしてしまう困った性分。 映画や小説の虚構を愛する友人が周囲に誰一人いない不幸な人生を送ってきたがゆえの寂しさかもしれぬ。 

が、人生は短いのだ。 現実の人だろうと虚構のヒトだろうと、できるだけたくさんの人たちとともに歩みたい。 私が望むのはただそれだけのことである。 そしてそれはすなわち、彼らの喜びと哀しみをすべて心にしまいこまなければならないということ。

 

♪ 年老いた人が 菩提樹の葉陰で

居眠りしながら 涙ぐむ

足元には新聞紙

 


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そんなふうだから僕は50代になっても、月曜日の朝にお腹がビチビチになる体質が治らないのだ。 健康診断で検便があるときには大変。 タイミングをうまく調整しないといけない。

 

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今週の土曜日(11/26午後)、シンポジウムでこんな話をします。 興味のある方は聴いてください。 オンラインもあるよ。

 

「医薬品の承認審査は神事」再び。

小野俊介

 

 これまで二十数年間私が言い続けてきたこと-医薬品の承認審査は神事である-を、コロナ禍が見事に可視化してくれた。 「ほれ見たことか」と冷たく言い放ちたい気持ちはあるが、そこはぐっとこらえて、「このままでは、お上やグローバル企業や御用学者にまた騙されて、またひどい目に遭うよ」と市民に警鐘を鳴らし続けるのがパブリックヘルスに携わる者の義務なのだろう。 何を言ってもどうせムダだけど。

 コロナ薬を緊急承認する仕組みができた。 過去の数々の薬事制度と同様、むろん今回もアメリカ様の後追い・サル真似だが、お上は「日本は薬害の歴史があり、『米国と同じ仕組みを導入した』なんて単純な話ではない。法制度を理解できないシロウトはこれだから困る」と嘆いているらしい。 私のようなシロウトには理解できぬ何やら深遠な意図があるのだろう。 そうあって欲しいと切に願う。

 米国政府は、三年近いコロナ禍において何度か「あ、いかん。オレたち間違えた。修正するね」と正直に告白している。 役に立たなかった緊急承認薬は承認を取り消したし、司令塔ファウチも何度か失敗を認めた。 一方、すばらしいのはニポンである。これまで、政府や周辺の人たちは誰一人間違いを犯していないらしい。 「すまんすまん。我々の施策、間違えておったよ。修正しまーす」的な公式発言を彼らが発するのを耳にしたことは無い。 人類未体験のこの状況でも彼らは決して過ちを犯さぬらしい。 人知を超えた能力。 ニポンの医師国家試験や国家公務員試験に合格すると、そういう神がかった能力が手に入るのね。知らなかった。

 しかしそうだとすると困ったことになる。 神のごとき無謬の方々には緊急承認は無理である。 だって緊急承認は「間違えるかもしれないが、ベストを尽くそう」という制度なのだから。 間違えても仕方のない決定をするのが緊急事態というものである。

 緊急承認のドタバタの唯一の功績は、薬事食品衛生審議会での議論が YouTube上で公開されたこと。 あんな意味不明な審議もどきに全国民の命がかかっていることを初めて知った一般人の多くは、背筋が凍ったのではなかろうか。 気の毒だが現実は直視してもらおう。 あれが昭和以来の伝統あるニポンの薬事行政の姿である。

 「青年将校みたいに青臭いことを言うんじゃない。 審議会が悲惨でも、この何十年間、一応は薬事行政は成り立ってきたのだ。 それでいいじゃないか」という冷静な評価もあろう。 その評価はむろん正しい。 だって、承認審査は神事なのだから(笑)。

 

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というわけで、何冊か紹介したい本もあるのだけど今日はこの辺で。 また次回。

皆さんは、僕みたいに寂しくならないように、いろんな人たち(虚構のヒトたちを含む)と仲良く楽しくおしゃべりしてくださいね。 わんこニャンコと話すのもよい、というかむしろうらやましい。

映画や小説の話をしたい方は遠慮なくコメント欄にどうぞ。 仕事や現実の話しかしないつまらない連中に囲まれた人生がもういい加減、イヤになってきてるサル的なヒト。 誰か友達になってはくれまいか。 年齢・性別・職業・民族すべて不問。

じゃまたね。

 

秋に心を乱さない

もう11月。 寒くなってきましたが、皆さん元気ですか? コロナ、大丈夫っすか? 油断しないでね。

ジブリパークというのが開園したらしいのである。 素晴らしい。 トトロの森に行きたいなぁ、地球屋のネコの目を覗き込みたいなぁ ・・・ などと考え始めると胸のドキドキが止まらない。 「トトロ」も「耳をすませば」も「千と千尋」 も、みんな素晴らしい名作である。 だが皆さん、スタジオジブリといえば必ず語られるべき大切な映画、人類の宝を一つ忘れてはいないだろうか。 

火垂るの墓」。

「節子、それドロップやない」 の光景はジブリパークのどこにあるのだろう? 清太と節子をイジめたおした親戚の叔母さんの家はどこに再現されているのだ? どこにも行き場がなくなった二人の子供が身を潜めた洞穴は?

普段から冗談ばかり言ってるサル的なヒトだが、これは冗談ではありません。 結構本気で書いています。 書きながら、「火垂るの墓」 のお話を思い出して、涙がホロホロとこぼれております。 誰もいない大学のオフィスでシクシク泣いているおじさん一名。

火垂るの墓」 は悲惨な話である。 ディ〇ニーランドのごとき能天気なテーマパークなら、そんな展示が似つかわしくないのは百も承知している。 が、そこは日本が誇るスタジオジブリなのだ。 ぜひ「火垂るの墓」 のあの情景をジブリパークのどこかによみがえらせてはもらえないものか。 むろん、ひっそりと。 宣伝などする必要はない。

そこを訪れる人々は皆、今の僕と同じように、涙をホロホロと流すことであろう。 それでいいのではないか、と思うのだ。 手にするとカラカラと音がする、おはじきが入ったサクマ式ドロップスの缶を前にして、号泣しない人はいないと思うのだ。 ジブリさん、そういうエリアを私たち日本人のために作ってはいただけませんか。

醜悪な戦争を憎み、平和が僕らの宝物であることを心の底から再認識することができる貴重な場、荒んだ心の浄化施設になるはずです。

 

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・・・ などと書きながら、「火垂るの墓」の原作者、野坂昭如が酔っ払って、大島渚をグーで殴り、大島渚が手に持ったハンドマイクで野坂昭如の頭を殴り返したシーンを久々に思い出した。 マイクが頭を直撃した音をマイク自身が拾うため、「ポコ! ポコ!」と大きな音が会場に鳴り響いたのである。

「まったく、いい年して、このバカたちは・・・」と二人を止める女優の小山明子さん(大島渚の奥さん)の呆れた感じの笑い顔もとても素晴らしくて、たまらない。

 


www.youtube.com

 

でもね、野坂さんも大島監督も、もう亡くなってしまいました。 昭和は本当に遠くなってしまった ・・・ と遠い目をして呟いてみたのだが、これは1990年だから昭和ではなく平成の事件だった。

皆さん、さっきは「火垂るの墓」についてとてもカッコいい提案をしたサル的なヒトだったのだが、正直に告白しよう。 そんなふうにカッコいいことを言いながら、実は頭の中で、野坂昭如が 「俺の『火垂るの墓』の展示をどうして作らねぇんだ!」 と叫びながら宮崎駿にストレートパンチを入れて、宮崎駿がマイクで殴り返す、という意味不明の妄想が渦巻いていたのである。

サル的なヒトは、悲しくて泣きながら、同時に幼稚園児並みにくだらない妄想をしていたのである。 ごめんなさい。 正直に謝ったのだから勘弁してください。

人間だもの。

 

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人間ならば、人生において絶対に読まないといけない本、というのが数十冊(いや、本当は数百冊)はある。 この本は明らかにその一冊なのだが、本棚に放置したままになっていた。 気合を入れて、読む。 製薬業界人向けの倫理の講義で話すネタにも「アイヒマン」は当然に含まれているので、知識の確認でもある。

 

 

アドルフ・アイヒマン

第二次世界大戦中のドイツのユダヤ人問題専門家、実際には絶滅収容所への移送の実務責任者として働く。 が、自分のしていることについてまともに思考していない。

虐殺の現場はあまり見ていない(上司・現場の責任者も、それを彼には見せない)。 当人は、法を遵守する市民を自認している。 カントの定言命法(「人間には普遍的に従う義務がある行為原則がある」とする倫理原則)をほぼ正確に引用し、自分の行為の道徳的正当化を図ることができる。

そんな人である。 どうですか。 そういうヒト、あなたのまわりに結構たくさんいませんか? 私のまわりには、います。

アイヒマンが償うべきは 「人間への罪」ではなく「人類への罪」だという主張の意味を久しぶりに反芻してみる。

 

今現実に起きている戦争については、エライ評論家の先生方のご意見よりもむしろ「不肖・宮嶋」 が語る暴論の方がずっと腑に落ちる。 なんせ現地にいるのだから。 ミサイルが、銃弾が降って来るウクライナの人々が感じている恐怖と絶望を、ほんの一部にせよ、わが身で体験しているのだから。 

すぐ読めるから、ぜひご一読を。

 

不肖・宮嶋は 「もうええ加減、戦争取材はこれを最後にさせてくれ! 年取ったせいで身体がボロボロだ」と半べそかいてるのだが、無情にも戦争は起き続ける。 キチガイが戦争を起こし続けるから。 いや、戦争を起こし続けているのはキチガイだけではなかろう。 現代を生きるたくさんの「アイヒマン」たちも。

「首都のキエフまで車で連れて行ってくれないか?」 と不肖・宮嶋が頼んだウクライナ国境近くのタクシー運転手の返答が心に突き刺さる。

「連れて行くことはできない。 来週から、ロシア人を殺すための訓練を受けるから」

国家首脳や政治家や政府高官はこうした訓練を受けないのだよな。 こうした訓練を受ける・受けさせられるのは、その辺の地べたで暮らしている私たち。 街中でミサイルが爆発したり、塹壕でドローン爆撃を受けたり、銃弾を受けたり、軍人に拷問されたりして死んでしまうのも、その辺の地べたで暮らしてる私たち。

 

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というわけで、感情の揺れがとても激しい今回のサル的日記であった。 落ち着こうにも、現実世界で起きていることが狂っているので、落ち着くことができないのだが、しかし、日々の生活の糧は自らが稼がねばならないのである。

私も頑張って学生の論文添削したり、講義資料作ったり、有効性の意味論の論文書いたりしますので、皆さんもがんばって自分の仕事をしてください。

あ、大事なこと忘れてた。 いしだ壱成に新しい彼女ができたらしい件については、また次回の記事で語り合いましょうね。

じゃまたね。

 

鯛メシと菓子パンと哀愁のサンフランシスコと

暑い暑いと前回記事で大騒ぎしてたのがバカみたいに涼しくなってしまった10月下旬。 皆さんお元気?

嬉しいことに、東大本郷キャンパスの中にある鯛メシ屋さんが2年ぶりに復活したのである。 コロナのせいで大学が閉鎖された2年半前。 外のお客さんはもちろんのこと、教職員・学生すらキャンパスから締め出されたのだから、「これじゃ鯛メシ屋は商売にならんだろうなぁ、気の毒に」 と誰もが思っていたのだが、その後半年くらいは頑張ってお店を開けてくれていたのだ。 持ち帰り弁当を売ったりして。 が、やはりそんな付け焼刃では無理だったらしく、2年前の秋に閉店。 皆、残念で仕方なかったのである。

だって、うまいんだもの、鯛メシ。 だいぶ高いけど。 めまいがするほどうまい。 お櫃(ひつ)に大量に盛られたご飯を茶碗によそって、卵と出汁しょうゆと鯛のお刺身をぶっかけて、わしゃわしゃとかき込むタイプ、つまり愛媛県宇和島市タイプね。 体育会系の兄ちゃんなら、メシ三合くらい食べれるんじゃなかろうか(笑)。

で、その鯛メシ屋さんが復活したのだから、こんなにめでたいことはない。 早速、秘書のおねいさんたちと一緒に駆け付けたのであった。 上品で小食のはずのおねいさん方のご飯のお櫃(ひつ)が僕のお櫃よりも先に空っぽになっていたのは、ここだけの話なので、秘密にしておくように。

 

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春に始まった医薬品評価科学レギュラーコース(RC)も残りあと数回。 今年度は会場とオンラインのハイブリッドで開催してるのですが、会場に来ていただけるのはごく少数。 ほとんどの受講生はオンライン参加です。

世の中の変化は非可逆的で、昔にはもう戻らないことを頭では理解しつつも、なんか受け入れられない。 だって、大勢の受講生さんがあの薬学講堂で、おやつの菓子パンをほおばりながら、にぎやかに会話していたのはほんの数年前なのだ。 その光景を思い出すと、なんだかじんわりと寂しい気持ちになってしまうのである。

サービスで出すおやつに関して 「カロリー高めの菓子パンが多すぎ。 『カロリー命』の若い学生じゃないんだから、もっとヘルシーなパン出して!」 と受講生から叱られたこともあったっけ。 コーヒー出すタイミングが悪くて、受講生が長い列を作ってしまい、怒られたことも。 会場周辺の研究室の先生が腹を空かせて通りかかったら、パンを差し上げて喜ばれてた。 高々100円ですごく感謝してもらえる(笑)。 ああ、あの頃が懐かしい・・・

今週と来週は後半のディスカッションの発表会なのだが、これもオンラインだから、やはり味気ない。

会場でディスカッションをやっていた頃は、空気が熱かった。 ライバルグループから厳しい突っ込みを入れられて、発表会終了後にディスカッションの延長戦をしたグループがあったっけ。 発表で厳しい批判を受けて、頭にきたらしく 「もう一度発表のチャンスをください!」 と私に迫ってきて、翌週に特別に再発表をしたグループもあった。

一方、ディスカッションはテキトーに済ませて(笑)、終了後に、本郷三丁目界隈の居酒屋でグループの打ち上げをするのを楽しみにしてる人たちもいた。 私も何度か誘われて参加して、思いっきり恨み言や泣き言を言われたりして。 会社の愚痴合戦も。 でもそれがとても楽しかったのである。

そういう人間関係、たとえば転職するときや、PMDAから理不尽な照会事項を受けたときに、こっそり裏で相談するのにとても役に立つ関係がオンラインではなかなか作れないよなぁ・・・と、研修主催者としてこの2年間、ずっと悩み続けているのである。 なんとかならんかなぁと工夫はしてるのだが、どうにもならん。

それって、どうしようもなく大きな社会の変化に虚しく立ち向かうドン・キホーテの戦いのようなものなのだろうな、と思いつつ。

 

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今週読了した教科書。 私の研究 (「薬が効く」 の意味論) に直結しているので。

35年前に出た教科書の増補改訂版。 日本語で書かれた言語哲学の教科書としては、最もメジャーなシリーズです(全4巻)。 4巻とも何度も読みこんだサル的なヒト。 読みこんだからこそ、改訂版が嬉しくてたまらないのである。

興味深いのは、飯田先生の改訂方針である。 なんと、「初版の本文と注釈は一切修正しない。いじらない」 のである。 今回の増補改訂版では、新たに注釈を補注として追加し、また、最後に「後記 2022年」として、この35年間に言語哲学の世界で起きたこと、そして、飯田先生自身の思索の変化が付け加えられています。

だから補注に、たとえば「(自分が初版で)挙げたこの名詞句の表は、いろいろと弁解を伴っているにしても、やはり、ちょっと恥ずかしい。 ただのつじつま合わせである。 」などという著者自身の初版に対する反省を込めた解説があったりして、とても楽しいのである。 が、もちろん、そうした反省は単なる読者サービスなどではない。

シロウトの私が言うのもなんだが、そうやって思考をめぐらすことが哲学の営みなのである。 扱っている問いの難しさが格段に高いので、学問の時間軸が違うのよ。 長い場合は平気で数千年スパンだから。 素晴らしいとは思いませんか?

「とにかく、最新の知見・理論がすべて」 とばかりに、常に薄っぺらく 「最新=正しい」 と信じて、最新の情報を追い求める類の人たち(たとえば、一般的な医学・薬学の専門家や業界人など)と哲学者では、根本的に腹の座り方が違うのである。 

この第1巻では大御所フレーゲラッセルの意味論を対比的に紹介してくれます。 一見似ている両者の「指示」の理論の根本的な違いがよく分かる。 

この教科書、いつものように「皆さんにおすすめです」 というわけにはいかないのだが (基礎知識もない医学・薬学の学生さんや製薬業界人がいきなりこの本読んだら消化不良を起こします。 ごめんね)、言語哲学と論理学をきちんと何年もかけて勉強する覚悟のある人は、この本を買って、とりあえず本棚に置いておくのがよいと思います。

がんばって勉強してね。

 

40年以上前の数学者の藤原正彦先生のこの本も、いまだ学生さんに読み継がれているのよね。 生協書籍部に今も積んである。 久しぶりに再読。

浜田省吾さんに限らず(笑)、「アメリカ」 に対するあこがれ、失望、ある種の郷愁など、深い思い入れを抱えて生きている人々にとっては、感涙モノの青春自伝である。 

藤原先生は、留学最後の夜をサンフランシスコで過ごす。

・・どこからともなく霧の一団がやってきて、またたく間に、林立する高層ビルを覆ってしまった。・・・ 私はこの霧の海に「私のアメリカ」が静かに沈んでいくのを感じていた。「私のアメリカ」 は太平洋で生まれ、大西洋で蘇り、この霧の海ににじんで消えた。

帰国前夜に、藤原先生とまったく同じ感慨を抱いたことがある人はたくさんいますよね。 どうして日本人って帰国前最後の夜をサンフランシスコで過ごしたくなるのだろう、というのも不思議だったりする。 単に日本航空の発着便の関係だったりしたら風情がないのだが。 

♪ We were just looking for America .... 

 

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寒くなってくるとラーメン屋さんが恋しくなる。 オンラインで引きこもってる皆さんもおいしい秋をお過ごしくださいね。 塩分とり過ぎはいかんぞ。 運動もしろよ。 歯磨けよ。 風呂入れよ。 仲本工事さん、さようなら。

じゃまたね。