小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

リスクベネフィット評価と称する思考停止

本日はレギュラーコース恒例のディスカッション成果発表会の1日目。 発表した3つのグループの皆さん、お疲れ様でした。 ちなみに今日のテーマはこれである。

(A) 最近承認された新薬を例にとって(背景が分かり易いものを選ぶこと)、医薬品の「リスクベネフィット」と称するもの (まずこれを定義すること。定義が複数あっても構わない。) が新薬開発・承認審査でどのように評価・検討されているかを説明してください。 それに基づいて現状の医薬品リスクベネフィット評価の限界、問題点を議論し、将来に向けての提案を行ってください。

これって、実になかなかの難物である。 特に、「社会の幸せ」 を考える枠組みを提供する学問を一度も学んだことのない、いわゆる理科系の方々には、「考えろって言っても何をどう考えて良いのか、考え方の道筋すらわからん」 という感じかもしれぬ。 で、結局皆さん、単なる業界人の常識を説明したり、ガイドラインと称するものを紹介したり。 「いや、大事なのは患者でしょ、患者」 というグループもあったが、患者の何が大事なのか、患者がなぜ大事なのか、患者をどのように大事にするのかを示さないと、 「いや、大事なのはお客さんでしょ、お客さん」 という一般論を言っているのと同じ。

今回の発表は終わってしまったが、来年、同じネタが当たるグループの方々のために (注 1)、この問題をどう考えれば良いのか、考え方のヒントを述べておきます。 ポイントは 「誰が」 「誰の」 「何を」 評価するのか、だ。

(注 1) 同じネタを来年も使い回す気満々で申し訳ない。

0. 前提: ここでは新薬開発・承認審査の文脈でのリスクベネフィット評価を考えているのだから、いわゆる 「公的な評価」 であることが前提。 「公的」とは 「政府の」 という意味ではありませんよ、念のため。 社会の人々とのつながりや関係性を考えた評価、というと分かり易いかな。

「私はこの薬が好きなのよ」 「私はこの薬よりも、あの薬を選びます」 などと意思表示するのは公的な評価とは言いません。 それって単に好みの吐露です。 経済学の言葉では顕示された性向・好み revealed preference といいます。

1. 誰が 評価するの?

リスクベネフィット評価と称するものを行うのは、誰なんだろう? あなた? 私? 彼? PMDAの審査担当者? 製薬企業の社員? 業界の常識に冒されたヒトではダメで、公平な第三者が必要なんだろうか? 公平な第三者って、何だよそれ?

PMDAの審査報告書には 「有用性が副作用発現等のリスクを上回ると考える」 だとか 「安全性は許容されると判断する」 なんて書いてあるけど、考えたり、判断したりしている主体が誰なのかが書いてないんだよね。 理事長? 審査チームの部長? それともワープロ打ちを担当している入社2年目くらいのおにいさん? ごまかしているそこがポイントなんですよ。

そもそも、評価する主体は個人(誰か特定のヒト)で良いのだろうか? それでは社会の人々とつながっていないような気がするし、上に書いた単なる好みの吐露のような気がする。 へー、専門用語では、それって 「独裁」 っていうのか。 昔の記事でサル的なヒトが説明しているぞ。 → 医薬品政策や規制の議論の仕方を覚えよう - 小野俊介 サル的日記

では、何人かグループを作って、グループの皆で一緒になって対象を評価すれば良いのかな? うん、確かにちょっと 「公的」 って感じに近づくね。 でもちょっと待てよ、グループを組むと自分の嫌いなヤツが加わるから、一緒に評価するのって嫌だなぁ。 嫌いなヤツらをみんな排除してしまうか ・・・ いや、それじゃまずいのか、だって公的な評価だもん。

患者さんにグループを作ってもらって、その人たちが評価すれば良いのかな? 業界人はつい商売がらみの邪 (よこしま) なことを考えちゃうから、加わっちゃダメなのかな?(笑)

ところでグループって、何人くらい必要なんだろう? 2人? 10人? 1000人? いや、日本社会を考えるならば、考えるべき主体は 1億 3千万人なの? うひゃー、1億 3千万人の意見を調整するのは大変だぞ。   

そういえば、それについてもあのサル的なヒトが昔ブログで妙なことを書いていたぞ。 → リスクベネフィット評価には「答えがない」 - 小野俊介 サル的日記 人数の問題ではなく、複数の人たちの好みをきちんと反映した民主的な評価の仕組みを作ることって、そもそも原理的に不可能なんだって。 合理的な評価の仕組みは、結局、「独裁」 だけなんだって。

・・・ わけがわからん ・・・

2. 誰の 何を 評価するの?

それって、患者の健康に決まってるじゃないか。 でも患者って特定の誰かなんだろうか? 患者全員? 患者がたくさんいる病気と少ししかいない病気では評価が違うのかな? 

でもさ、患者の健康って言っておきながら、リスクベネフィット評価と称して製薬業界人が実際に見ているものって、薬の有効率だったり、副作用の発現率だったりするよね。 そういう集計 (平均値だったりする) って、個々の・実際の患者の健康とは5万光年くらい離れているように見えるのだけど、みんな平気なのかなぁ。 「リスク」 と 「ベネフィット」 って描いた天秤をもち出して、「ベネフィットがリスクを上回る」 なんていう情緒的で無意味な主張をしたり、あるいは 「安全性については許容可能と考える」 なんて書いたりする人たち (注 2) って、頭の構造が根本的に 「患者の健康」 とは違う方向を向いている気もする。 → リスクベネフィットの考え方 再び - 小野俊介 サル的日記

(注 2) 「許容可能と考える」のは誰ですか? という突っ込みを入れなければならないのは、1. に書いたとおり。

待てよ。 僕らの見ていることって患者の健康だけではないような気もする。 「オーファン薬が大事だ」 なんてことをリスクベネフィット評価に絡めて言う人たちがいるけど、それって、患者の健康だけじゃなくて、かわいそうな難治性の少数の患者さんが幸せになることを 「周囲の健康な人たち」 が望んでいるからだよね。 とすると、見るべきは患者だけではなくて、その周囲も含めて ・・・ もしかしてこっちも 1億 3千万人なのか?

結局我々が評価すべきは、「薬を飲んだ(飲む)人たちを含む社会の状態」 の善し悪しなんだろうなぁ。 でも健康以外の社会の状態って、一体何でどう計れば良いんだろう? あとね、我々は何と何と比べるべきなんだろうか? プラセボしかない世界との比較? 6個くらい同種同効薬が存在する世界との比較? 

・・・ わけがわからん ・・・

とまぁ、このようなことを苦悩しなければならないのですよ。 これが課題の意図である。 今、皆さんが新薬開発業務あるいは新薬承認業務と称してやっていることが社会にとってどのような意味があるのか(あるいは (もしかして) 無意味な儀式と主張を繰り広げているだけなのか)を根本的な構造から考えてみてほしいのです。

そうした苦悩の考察の上で、「リスクベネフィット評価とは、いろんなヒトが、いろんなことを考えることです」 というありきたりの結論に至る可能性もありますね。 でもね、そうした苦悩を経てありきたりの結論に至ったヒトと、業界の誰かが言っていることをオウムのように真似してありきたりのことを言っているだけのヒトでは、天と地ほどの違いがあるのですよ、実際。

上の議論のすべてについて、ちゃんとした学問があります。 皆さんが学問の存在を知らないだけなのよ。 本気で勉強したい人は、まずはこの入門書を読むことをお勧めします。

「きめ方」の論理 ―社会的決定理論への招待―

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