小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

倫理を学ぶ生臭い理由

先週の金曜日から都内某社で出張講義開始。 「なぜ倫理を学ばないといけないのか」 のイントロの説明に力が入りすぎて、肝心の倫理の講義にほとんどたどり着けないという、ちょっと失敗でした。 皆さんすみません。 次回はちゃんと道徳の樹のそれぞれの枝を説明しますので覚悟期待しておいてください。

今日の大学院講義でも念入りに説明したのだが、業界人(私を含む。)が倫理や社会選択の議論を知らぬまま、平気な顔をして仕事ができているような気分でいられるのは、下のスライドで説明できる。 

業界人が仕事だと思っている「医薬品の評価」は、この表の上の方ですね。 将来、薬効評価用人造人間 (薬の実験に好きなように使えるアンドロイドのキムタクのようなヤツを想像すると良い) で良く効いたら、業界人はたぶん 「この薬はヒトに効きますよ。 いい薬ですよ!」 と宣伝するのだろうなぁ。

一方、街中を歩いているその辺のおじさん・おばさんが期待している 「医薬品の評価」 は、この表の下側です。 「お医者さんや研究者や製薬企業の人たちが使命感に燃えて、一生懸命に仕事をしているのは、「大島優子」 や「私」や「あなた」を幸せにしてくれようとしているんだよね、きっと」 と信じている。 むろん業界人もそうしたいと思っている。 皆さんの善意や熱意を疑うつもりはない。 でもね、今の薬効評価や承認審査において、表の下側のベクトル (社会を構成する、現にそこにいる人間を愛する方向のベクトルね) の懸念をきちんと取り込んだ枠組み (方法論的、理論的、倫理的、政治的 ・・・) が存在していると思いますか? 存在していませんね、残念ながら。 そこが問題なのです。 特に倫理的な基本スタンスを議論したことが無いのは痛い。 

言うまでもないが、政治哲学的な、あるいは経済的な倫理が重要な役割を果たすのは表の下側です。 表の下側をまともに考えたことも議論したことも無いことは、倫理を知らずに独裁者 (社会選択論の意味で) として仕事をしてきたことと等価なのですよ。

これは、丸山真男風に言えば、「重大国策に関して自己の信じるオピニオンに忠実であることではなくして、むしろそれを「私情」として殺して周囲に従う方を選ぶ矮小な精神」の発露と表裏一体にも見える。 そう、僕たちって、自分で決めているのに、自分では決めていないような顔をしてますよね。 丸山先生、戦後70年経っても医薬品業界人をはじめとする(はじめとしてはいかんか(笑))日本人は何も変わっておりませぬ。

こうした構造が理解できれば、あなたは少し善い人間になれます、きっと。 それが理解できないままだと、いつまでたっても 「武田のこの抗肥満薬は承認されたのに、保険に載らないのはけしからん! ムキー!」 とか叫ぶだけのおサルさんのままである。(注 1)

(注 1) キーキー騒ぐサル的な若者はかわいい。 むしろ見込みがある。 ちょっとしたきっかけを与えて、まともな方向に教育すれば立派に成長することも多い。 でも歪んだ環境で歪んだ上司に育てられると歪んだ社会人になっちゃうんだよなぁ、気の毒なことに。

*****

板橋区の某社の研究開発部門へ行くのには都営三田線を使うのだが、驚いたことがある。 夕方4時ごろの時間帯なのだが、板橋区あたりで乗ってくる乗客のおじいさん・おばあさん率の高いこと! ほとんどが髪の毛が真っ白の、完全な (というのも変だが)おじいさん・おばあさんなのである。 とてもじゃないが40代ごときが席に座っていられる状況ではない。 車内は文字どおり真っ白 (白髪) なのである。 相当にシュールな光景だ。 軽く目眩が。(注 2)

(注 2) 三田線を使うある読者の方から、「ブログ中の「板橋・三田線の界隈」のお話は、私も正に同感で、高度経済成長の時代は、近代的な高層住宅そびえる高島平を象徴に、活気あふれる沿線の様相もあったようですが、時代の変遷とともに現在のような状況に変わって来ております。が、ある意味で高齢化社会に突入している我が国の最先端をいっているとも言えると思います」 というご指摘を頂きました。 そうでした。 あの高島平・・・ 

こうした驚きを覚えてしまったのは、私が普段使う路線が渋谷始発だったりして、若い世代の乗客が多いのに慣れているからである。 時間帯の問題 (午後4時頃ってサラリーマンがあまり乗っていない) もある。 が、それにしても、あまりの車内の 「白さ」 に驚いてしまった。 しかし、だ。 もうまもなくすれば日本ではこの光景がむしろ普通になるのである。 数十年したら、渋谷発の路線も間違いなく白くなる。 私自身もすぐに白い仲間入りだし。

そのとき日本は、まだ国として成り立っているのだろうかね。

*****

評判が高かったのに読みそびれていた直木賞作品をやっと読む。 蜩ノ記ひぐらしのき)」

蜩ノ記 (祥伝社文庫)

蜩ノ記 (祥伝社文庫)

主人公 戸田秋谷(とだしゅうこく)のごとく生への執着を捨てることができれば、清々しく、凛と生きることができるんだよなぁと思う。 生き死にの世界にまで行かずとも、組織や人間関係の狭間でスジを通そうと思えば、「クビになっても仕方ない」 「この人とは喧嘩別れしても仕方がない」 という覚悟が必要で、そのためには立身出世や名誉や世間体といった意味での執着を捨てる覚悟が必要 ・・・ と分かってはいるが、自分には行動が伴わん。 情けない限り。

「もはや、この世には未練はござりませぬ」 という切腹前の秋谷に対する慶仙和尚の台詞が秀逸。

「未練がないと申すは、この世に残る者の心を気遣うてはおらぬと言っておるに等しい。 この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう」

齢をとると誰でも自分の死に方を考えるようになる。 毛色が180度変わるが、この本も面白かったぞ。 そう、あのいい加減なオヤジ二人の対談本。 タイトルが 「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」(笑)

どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか

どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか

死ぬのって苦しいのかを真剣に考察するリリー・フランキーみうらじゅん。 で、結論は 「無茶苦茶痛い思いをしたときに、つい 『死ぬほどイテー』 っつーじゃん。 だから死ぬのは痛いんだよ、きっと」 的な(大笑)。 この二人の対話、実に良いですよ。 おすすめ。