小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

「誠実な人は、孤独なのよ」

今年の臨床薬理学会学術総会(会長 昭和大学内田英二先生)は有楽町の東京国際フォーラムで開催。 私ごとき若輩が申し上げるのも変ですが、内田先生のあたたかいお人柄・人徳を反映した大会だったと思います。 特に若手にとっては臨床薬理学の主たるトピックが総括的に勉強できる良い機会でした。 まとめていろんな話が聴けるのが学会の長所。

私も講義を一本。 50分の講義を3分程度にまとめると、こんな感じ。

臨床薬理学と医薬品開発・規制をめぐる諸科学はいくつかの重大な歴史的課題を共有している。 過去数十年、皆が頭の片隅で密かに疑問に抱きつつ、解決が困難であると半ば放置してきた課題である。

1. 薬効評価・承認審査における基本用語の定義の不在

 承認審査等で有効性、安全性、リスク、ベネフィットといった基本的な言葉の定義が不在のまま、議論が展開される光景をしばしば目にする。 むろんほとんどの議論はどこにも辿りつかない。 薬事法で有効性・安全性という重要な言葉が定義抜きで使われているという事実の重みを直視しよう。 この事実 (医薬品評価の業界人が、定義無しで気持ち悪いとさほど感じていないこと)自体が、トランスサイエンス領域における非常に興味深い現象でもある。

2. 「この薬は有効である」という表現の陥穽

 薬は「誰に」効くかが問題なのであり、「誰に」抜きの有効性表現は本来あり得ないはずだ。 「この薬は赤い」といった属性と同じ感覚で 「この薬は有効である」 と言うのはナンセンスなのだが、世の中には 「この薬の有効性が検証された」という表現が溢れている。 なぜだろう? これってたぶん、社会に存在する固有名詞の人間 (世の中に実際に存在する人 (例えば大島優子とか、あなたの奥さんとか))を業界人が助けようと本気で考えていないことの副作用ではないか。 業界人が、社会の誰を具体的に幸せにしたいか? を考えないことと、分配の正義について様々な解釈を与える(政治哲学的な)倫理への言及が薬効評価で起きないことは、表裏一体の現象に見える。

3. 「誰の」幸せを考えているのかの空白

 「国際共同試験での日本人の症例割合はどの程度にすべきか」を例示した Q&A には 「H:日本人と欧米人の薬の効き方は同じである」という仮説・前提の下で 「仮説に反した、『日本人の効き方が違うように見える』という結果を偶然に生まぬようにするにはどのくらい日本人を試験に入れるべきか」という懸念に基づいた有名な記述がある。 ICH E5 は薬効評価の民族差を生じさせる要因が存在することを前提に、それにどう対応するかを記した文書のはずだが、その Q&A では前提が逆になるとは奇妙な話ではある。
 上の Q&A のスタンスは信頼性を尤度 Pr (D|H)と捉える統計学、あるいは(無自覚かもしれぬが)尤度主義の考え方に根拠を置くものだが、しかし、審査当局を含む薬のユーザーにとって気になるのはむしろベイズ主義的な事後確率 Pr(H|D)、つまり「試験結果が出たとして、その結果がどの程度の人種差を示すものか?」である。 自然な発想に思えるそのようなベイズ主義的な推論に際しては、事前確率 Pr(H)、つまり試験前に人種差があると信じられている程度を必ず想定するはずだが (私もこの十数年それが気になって仕方がない)、事前確率を織り込んだベイズ主義的な議論が生じないのはなぜだろう?
 医薬品評価において、 「誰の幸せを考えるのか」につながる無作為抽出が、無作為割付に比してなぜこれほど軽んじられるのかともつながる興味深い論点に思える。

この手の講義を聴くと、業界の皆さんはイライラするらしい(笑)。 こちらは社会科学、それも、よくある反証主義的な講義スタイルに従って 「仮説」 を提示し、その仮説成立の可否について(仮説に含まれる因果関係について)、定量的に分析した結果を提示したり(例:ドラッグラグの成因など)、あるいは質的研究でのお作法に従って、一つ一つ議論を進めていくわけである。 事例の説明についても、こちらとしては 「これは least likely case method として分析しているんだよね」 などと胸を張っているのだが、そういう意図は聴衆にはなかなか伝わらない。 講義の前にあらかじめ説明してもダメだった。 残念ながら。

それも仕方がない。 業界の皆さんの多くが聴きたいのは、「グローバル企業は、今、こんなことをやっています」 「当局は、今、こんな審査をやっています」 といった流行の最先端話(ばなし)や、「グローバル化のご時勢に生き延びるには日本はこうあるべきでしょう!」 といった前のめりの規範主義的な分り易い主張であることは百も承知。 それらはそれらで重要なトピックだ。 参加料を払うのは皆さんなのに、なんで 「自分では解消できない認知不協和を引き起こしかねない耳障りな仮説や問題提起にも耳を傾けてみようよ」 などという説教を聴かされなきゃいけないんだよ? と不満になって当然だと思う。 皆さんの気持ちになって考えたらね。

でもね、私は私で皆さんに媚びようとは思わないのです(すみません・・)。 盲点になっているシステムの穴、論理的欠陥、潜在リスクを必死で探して、エセ科学ではない反証可能な科学的仮説の形で疑問を呈し(ポパーね)、将来の改善に少しでもつなげることはきわめて建設的で前向きな活動に思えるからだ。 言いすぎたり、間違えたりして、恥をかこうがかまわない。 予測を旨とする科学に取り組む専門家が恥をおそれてどうする、と思うからだ。 堂々と間違えて、堂々と恥をかけるのは、学者の特権。

講演後に質問を受けつつ、「へー、私の話を業界人は 『ネガティブな話』 と受け止めるのか。 いつもながら業界人の反応って興味深いなぁ。 医薬品業界人の発想が、社会科学者のそれとなぜ異なるのか、研究ネタとしてますます面白い」 などと思ったりしました。(注 1)

・・・ というわけで、私も楽しかったです。 聴衆の皆さん、どうもです。

(注 1) しかし、同じ日にほぼ同様の講義をした西台あたりの某社の受講生が示したまったく異なる反応(倫理への食いつきの良さ、知らない世界に対する興味の高さ)からして、同じ業界人の中でも知的好奇心のレベルは実に大きくばらついているのではないかという気もする。

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それにしても、まいった。 映画好きを自称する割に、名作と呼ばれる作品をどうも敬遠しているサル的なヒトなのだが、とんでもない過ちを犯してきたことに気づかされた。 この映画を 24年間も見ないでほったらかしにしてきたなんて。

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この映画を侮っていたのは、この映画を素晴らしいと誉める人たちの多くが 「トト君の愛らしさ」 を強調しすぎるから、である。 「けっ、子供使ったお涙頂戴ドラマなんぞ誰が見るかい」 などとひねくれていたわけである。 24年間も。 自分、完全に阿呆である。

これ、すばらしく上質のオトナのドラマじゃないか。 淡々と描かれつつも、その瞬間に刻まれる深い思い。 心が揺さぶられる恋。 人生は、何かを得て、何かを捨てるということ (私も実感が湧くようになったのは最近だ)。 若き日の希望や夢の切なさと儚さ。 そして、同時代を生きるあなたと私は、共に年齢を重ね、いずれ死んでいくということ。(注 2)

(注 2) 今日のブログの表題も台詞から頂いた。 そう、誠実に生きようとすると孤独になる。 

・・・ いかん。 涙が止まらない。 映画を観終わって何時間も経つのに、涙が止まらん。 Ennio Morricone のテーマがいつまでも頭に響き渡る。

誰もが激賞するラストシーンは、文句なしに素晴らしい。 おじさんが守った数十年前の約束。 いくつもの愛の形がスクリーンを流れていく。 涙を浮かべながら、あの頃のトトに戻っていくサルバトーレ。 

ラストシーンの深い余韻は、これも同じく Ennio Morricone が音楽を担当した 「Once upon a time in America」 のヌードルスのパイプドリームのエンディングと重なるものがある。 タイプは全く違う映画だけど。 見たことが無いヒトはぜひどうぞ。

オリジナル版(長い方)のエレナとの再会のシーンは賛否両論だが、私は素直に感動しましたよ。

二十年ほど前、ディズニーランド(フロリダだったか、ロスだったか)の映画をテーマにしたパビリオンで、昔のいろんな映画の名シーンをつなげたショーを見て感涙にひたったことを思い出した。 久しぶりに映画愛を再確認。

同じ感動を味わった方から、「お前は遅すぎるよ」 とお叱りのコメントをぜひ頂きたい。 がしかし、今の年齢に至ったからこそ、この感動を味わえているのかもしれぬ。 もしそうだとすれば、年齢を重ねるのは悪いことではないなぁ。