小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

学問の限界を知る

先週の金曜日で、板橋区に開発の拠点があった (過去形) A社さんでの10回講義は終了。 皆さんお疲れ様でした。 エントランスに鎮座していたあの白い巨石がこの後どのような運命をたどるのかは私も知らないのだが、それなりに扱いに困る存在であることは確かであろう。 公園に放置すると、子供が勝手によじ登って転落しそうな形(笑)。 余計なお世話か。 

もう一つの心配が、板橋区からお江戸の中心、日本橋へと移動してきたA社社員の方々の心のケアである。 日本橋コレド COREDO と言えば、あの三井不動産により開発されたオフィス・ショッピング・レジャー複合地区。 A社オフィスの下の階には 9スクリーン、1,770 席もあるシネコンやこじゃれたレストランが鎮座する。 敷地内の池のほとりを近所の白い野良猫がのんびり散歩をしていた板橋区から、時にスパイダーマンが登場するニューヨークマンハッタン並みの都会へと移ったわけだから、社員の精神的動揺は相当に大きかろう。 適応をお祈りいたします。

今、大阪の某社での講義が続いており、この会社のエントランスにも、会社の看板となっている薬のどでかい模型が設置されている。 恐ろしいことに、この薬剤の分子骨格がこれまたとびきりややこしいのである (有名な生理活性物質。 プロなら 「ああ、あれか!」 とすぐにわかりますね)。 子供がふざけてその上に乗って遊ぶと、むやみに広がった側鎖に足を取られたり、原子の一部で後頭部を強打する可能性がある危険な代物だ。 医薬品評価のプロとしては、きわめて危険な構造の薬剤と言わざるを得ない。 (注 1) バイ○ルのアスピリンの構造くらいだったら、子供が遊んでも安全 ・・・ でもないか。

(注 1) 本気にしないように。

今週の水曜日が大阪での講義日。 先ほど手帳でスケジュールを確認していたら、講義に行くその会社名よりも、新大阪駅みっくちゅ・じゅーちゅが頭に思い浮かぶ。 「よしっ、今回はいつものМサイズじゃなくて、Lサイズを買っちゃるけんね」 などと大それたことを考えて今からドキドキしているのだ。 小人物とは私のことだ。

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先日、私が講義している社会科学系のややこしい概念や不確実性の考え方が役に立つ場面に出くわした。

A社 (日本橋コレドの会社) からの帰りの地下鉄の車内。 帰宅ラッシュの時間帯だが、運よく空いている席に座った。 車内はだんだん混んできて一杯に。 九段下駅で女性2名が話をしながら乗り込んできて、私の目の前に立った。 どちらも30代前半くらいかな。 うち一人のお腹が私の目の前に来たので、目をやると ・・・ あ、エイリアンの頭の形だ(笑)。 妊婦さんのお腹の形って、たいてい、エイリアンの後頭部のようなカーブなので、容易に判断できるのだ。 すぐに 「どうぞ」 って席を譲ろうと腰を浮かせかけたその瞬間、私の目の前20センチくらいのところに、もう一つ、違う形の出っ張った腹が現れた。 なんと、もう一人の女性のお腹も出ているじゃないか。 それもエイリアン型とは微妙に違う形で。 こっちは大相撲の力士型だ。 今現在の家人の腹の状態がちょっとこんな感じである。

む? むむ? 私の目の前20センチで、一体何が起きているというのだ?

行為の正当性が一気にグラグラと崩れていく感覚に襲われる。 お腹の大きい女性に席を譲るという行為って、一体何なんだ?

・・・ い、いかん、冷静になれ、自分。 まずは例の 「赤ちゃんがいます」 マークを確認しよう ・・・ 両人とも付けていない。 となると次の手段は、偉大なる人類の知恵 「統計学的な推論」 か。 しっかりしろ、自分。 あんた、講義で大学の先生のような顔をして教えているじゃないか。 

エイリアン後頭部型の妊婦が一人、ラッシュアワーの通勤電車で私の目の前に立つ確率は、そう ・・・ 1/100くらいだろうか。 日常で目にしても不思議ではない事象だ。 では、妊婦が二人同時に目の前に立つ確率は? これって著しく低い確率のイベントじゃないか? 医薬品の世界の推論の方式、確率論的モーダス・トレンスでは仮説自体 (仮説: 二人の妊婦が通勤時間の地下鉄の車内で同時に目の前に立つ) を否定すべき状況なのではなかろうか。 そうだ、そうなのだ。 これは幻なのだ。 俺は幻を見てるんだ。 あははは ・・・ 

・・・ 目の前の大きなお腹二つはどう見ても実在である。 混雑した電車の中でますます存在感を増しているようにすら思える。 ここまで 0.18 秒。

いや待てよ。 私が考えるべき確率は、正確には、エイリアンの後頭部型の腹の妊婦が目の前に立っているという前提で、さらに力士型の腹の妊婦が立っている条件付き確率なのではなかろうか? いや、両タイプの腹の妊婦の出現は独立事象なのだろうか?

・・・ ここまで 0.52 秒。 推論はさらに急加速度で深まる。

あ、むしろこれは意思決定におけるベイズ問題と捉えるべきか。 あるいは、「最悪」を考慮する maxmin 基準あるいは「後悔」の Savage の基準を適用すべきだ。 ここでの「最悪」って、あれだよな、あれ。 ビール腹かなんかの女性を妊婦と勘違いして 「どうぞ」 と席を譲ってしまうこと。 とんでもないことになるぞ、自分。 ぶん殴られるかもしれん。 満員電車の中で女性にぶん殴られるのって、カッコ悪いなぁ。 

・・・ ここまで 0.83 秒。 完全にフリーズしてしまった。 いや、脳みそはフル回転しているのだが、解が見つからない状態。 喩えるならば、統計ソフトの最尤法で回帰式の係数を推定しようとして、 not concave というメッセージが続いている状態である。 何のことか余計にわからなくなっている気がするが、良い子はわからなくてもよいと思うぞ。

こういう追い詰められた状況下で、人間がとるべき最善の行動、それは 寝たふり。 九段下駅から青山一丁目駅までの7、8分ほど寝たふりをして、現実逃避しましたよ。 神様、ごめんなさい。

状況の変化 (ベイズ流の統計でいうベイズ更新) は青山一丁目駅で突然に起きた。 会話を続けていた 「力士型」 の女性 が 「エイリアン型」 の女性の腹を急にナデナデして、「だいぶ大きくなったねぇー」 と呟いたのだ。

あいやー、そういうことか。 瞬時にすべてを理解。 妊婦を立たせておく非道はむろん許されぬ。 というか、抑圧されていたアフォーダンスがついに発動。(注 2) すっくと立ち上がり、 「あのー、どうぞ」 と席を 「エイリアン型」 に譲ったのでした。  その後の会話を聴いていたら、「力士型」 は妊婦ではなかった模様。 要は、初めから直感に従えば良かったのである。 「燃えよドラゴン」 であのブルース・リー師匠も言っていたではないか。

Don't think.  Feel !

学問的な方法論の完全なる敗北である。

(注 2) スイッチがあると押したくなる、ひもがあると引っ張りたくなる、穴があると覗きたくなる、・・・ というやつです。 妊婦がいると席を譲りたくなる。

結論: サル的なヒトが講義で教えている種々の社会科学的な手法は、妊婦の腹を前にした意思決定には役に立たない。

今日の講義は以上。 講義も役に立たんなぁ(笑)