小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

弁当の話

ここ数十年、ずっと頭にきていることがある。 それは社会人の弁当扱いのいい加減さ。 社会人のおっさん・おばさんが弁当に対する愛情を欠いていること。 数十年間ずっと怒り続けているわけだから、相当に根が深いぞ。 

例えば夕方6時から始まる業界人や学会の会議。 そもそも皆が疲れ切ったそんな時間から始めて、独創的で素晴らしいアイデアなんぞ出るわけがない。 その手の会議って、ほとんどが会議への出席を通じて仲間内の忠誠心を確認し、お互いを縛り付けて裏切り者を出さないことが本当の目的だったりするわけで、大概は会議を開催することの意味すらないのだが、今日はそれは置いておこう。

問題は弁当である。 会議の最初や途中で配られる弁当である。

医薬品がらみの業界や学会の会議って、たまにすごい弁当が出ることがある。 おそらくは 2000円くらいと思われる弁当。 あの有名な今半とか、なだ万とか、そういうヤツね。 目の前に置かれた弁当の包み紙を見ただけで 「むっきー! やったー!」 と狂喜乱舞しながら叫ぶわけである。 心の中で(笑)

普段は生協で1食あたり 350円以内におさめないと家計がヤバくなるサル的なヒト。 タンメン、かまたまうどん、カレーライスあたりで勝負だ。(注 1) で、月に二、三回ほど自分へのご褒美と称して、本郷通りの海鮮丼屋さんで大トロあぶりサーモン丼 (500円) を食すのが最大の贅沢という食生活を送っている。 いや、別に私が貧しいとは思わない。 一般家計の食費感覚はそんなもんだろう。 消費税をいくら上げても何の痛みも自分では感じぬ高給取りの政治家連中を一週間オレの食生活に付き合わせたら、きっと日本の政治はまともになると思うぞ。

(注 1) 東大生協のカレーは2種類ある。 ビーフカレーと称する方は 400円もするブルジョア向けの高級品だから間違っても手を出してはいけない。 あくまでフツーの、肉がそれほど目立たない、単なるカレーの方を選ぶこと。

で、目の前の高級弁当である。 心躍っている自分を周囲に見透かされぬよう、プルプルと震える手を押さえながらそっと蓋を開けると ・・・ おおっ、そこに広がる和食の粋! 宝石箱のように小さく仕切られた弁当箱の中に鎮座する煮物、焼き物、揚げ物、天ぷら、おひたしたち。 数十センチ四方に広がる無限の小宇宙と言っても過言ではあるまい。 ご飯が二種類、白飯と茶飯が入ってる。 茶飯の上に乗っているのは、あの超高級食材、松茸というものではあーりませんか。 甘いモノとしては黒糖のわらび餅か ・・・ む? 隅っこには季節の果物、巨峰と思しきでっかいブドウが一粒。 こりゃたまらん。 たまらんぞ。 タマランチ会長!(注 2)

(注 2) 古い。 あと、日刊ゲンダイ的。

しかし、である。 稀にしか出会えない美しい弁当を目でウルウルと愛でている間に、すでに私は出遅れているのだ。 まわりの脂ぎったおっさん連中ときたら、特段何の感慨もなくぞんざいな手つきで弁当を取り出すと、ムシャムシャと弁当を大口に放り込み始める。 その早いこと早いこと。 「このおっさん、高級スーツ着て、高級腕時計してるくせに、中身はもしかして欠食児童とちがうか?」 と思うほどの品の無い食べ方である。 一人二人ではない。 私の26年の社会人生活における集計では 93.5% のおっさんがそういう風にすさまじい勢いで弁当を食べる。 で、ほんとに5分くらいで弁当を食べ終わってしまう。 その間に話すことと言えば、例によって仕事や会社の話ばかり。 「あの研究費のプロジェクトが ・・」 だの 「先日の製薬協の部会で ・・」 だの。

あのさ、これが忠誠心の確認のためだけのくだらん会議であるにせよ、なぜか席を同じくしてそれぞれの人生の一時を共有しているのだ。 人として、話すことが他にいろいろあるだろ。 宝物のように美しい和食をネタにしながら、日本の食文化の素晴らしさを語ったりとか、秋の深まりと人生の晩秋を重ね合わせての感慨に浸ったりとか。 政局、時流の虚しさを語るのも多少は良かろう。 日本食がキーワードとなっている映画や文学を語るのも乙なものだ。 でも、そういう会話をしたことは26年間、一度もないなぁ。

い、いかん。 出遅れた、と思いながら、そして、こんなぞんざいな食べ方をしては高級弁当を作ってくれた板前さんに悪いなぁと思いながら、弁当を食べ始める。 ただひたすら口に放り込む。 途中、「おおっ、このコンニャクの味の染み方は素晴らしいぞ。 どう煮つけたんだろう?」 などと感動しても、周囲のオヤジはあっという間に食い終わって、遠慮もなく爪楊枝でシーシーと歯に挟まった高級食材の残骸をホジくってたりするので、誰ともこの感動を共有することなどできないのだ。 だから、ただただ焦って弁当をノドに掻き込む。 でも、人より喉と食道が細いサル的なヒトは、どうやっても速度が上がらない。 

そうこうしているうちに、みんなが冷たい視線をチラチラとこちらに向け始める。 「こいつ、いつまで食ってんだ? 早くしろや」 と無言のプレッシャー。 後ろに座っている事務局の方々もチラチラと腕時計を見たりなんかして。

で、私がやっと半分くらい食べ終わった頃、座長に 「では時間ですから、そろそろ会議を始めてもよろしいでしょうか」 と宣告される。 たいていは 「お食事中の先生は、どうぞそのまま食事をお続けください」 と言ってくれるのだが、私一人だけがムシャムシャ食い続けられるわけがなかろう。

宝石箱にまだまだ残っているお料理たち ・・ レンコンさん、銀ダラさん、ゴマ豆腐さん、鶏つくねさん、卵焼きさん、里芋さん、白いご飯さん、わらび餅さん、巨峰さん。 みんな、みんな、さようなら。 残飯にしてしまってごめんね。 君らお弁当の中身は、芸術品と言ってもいいほど素晴らしい出来栄えなのに、こんなくだらん会議に配達されてしまったばっかりに、誰からも一言も賛辞を受けることなく、一瞬で食い尽くされてしまって、ホントに無念だろうね。 

妙齢のおばさんたちの楽しい趣味の集まりや、食事を楽しむことに長けた若い女の子たちの集いにこの弁当が出されたら、あるいは 「年金暮らしだけど、年に一度くらいはうんと奮発して、なだ万の弁当を買いましょうよ」 なんていう老夫婦のもとにこの弁当が配達されたなら、きっと、「さすがに一流店の弁当は美味しいわねぇ」 「このお煮つけの味、どうやって出すのかしら?」 などと皆にニコニコしながら鑑賞され、誉められ、感謝されて、幸せに弁当としての一生を終えることができただろうに。

涙が心の中でじんわりとあふれ出る。

私は弁当の蓋をそっと閉じる。 するとすぐに、事務局のヒトが気をきかせて 「小野センセ、空の弁当箱お片付けしましょう」 と寄ってくる。 ああ、空ぢゃないのよ。 できることなら 「弁当の残りを持ち帰りたいので、紙袋もらえませんでしょうか」 と口に出したい。 でも言えない。 事務局の人たちは、好意で、早く弁当を片付けて、私に会議に集中してほしいと願っているのだ。 私がいつまでも未練たらしく、心の中で弁当の面影を引きずると、この事務局のヒトの好意を無にすることになる。 実際、紙袋を用意するのって、事前の用意がなければ相当に面倒くさいのよ。 だから私は何も言えない。 ただ、「あ、どうもすみません」 とだけ言って、弁当とおさらばするのだ。

さようなら、お弁当さん。 半分しか食べれなかったけど、本当に美味しかったよ。 あの花大根甘酢漬の味も良かった。 わらび餅と巨峰、うちの嫁さんに持って帰ったらきっと大喜びしただろうなぁ。

・・・ などということをその後の会議の時間中、2時間ほど鬱々と思い続ける。 いいのだ、どうせ私がいてもいなくても関係ない会議なんだから。

日本人って、お金持ちなんだけど、幸せではないという調査結果がいつも出てくる。 こうしたビジネスの場面での、お金持ちで恵まれた日本のおっさん連中の、一期一会の食事を愛でることすらできない心のゆとりの無さ、粗暴な振る舞いを見ていると、そりゃ自業自得だよなと思う。 あんなに素晴らしい日本の弁当をちゃんと愛で、味わって、フフフ、愉快だねぇと心の底から楽しむことができぬ人々に、人生のほんの小さな幸せの機微が見つけられるわけがなかろう。

幸せはね、いつだって僕たちの目の前にあるのよ。