小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

リベラルアーツのすすめ

「このお薬の有効率は35%です」 などと業界人は気楽に言うのだが、これってどういう意味なんだろう? 真剣に考えたことありますか? 実はそう簡単じゃないのよ。 35%という数字が臨床試験の結果であること、そして一般に有効率は 「薬を飲んで治った人の数/薬を飲んだ人の数」 で計算されることくらいは業界人なら皆知っている。 でもそれって単なる比率 (割合) でしょ?

その辺の素人さんが、薬のプロのあなたに 「有効率35%の薬って、私には効くんですか?」 と質問してきたら、どう答えるか。 たぶん 「もし100人に飲ませたら35人くらいに効くってことですぅ」 と答えるのだろうが、それって素人さんの知りたいことにはまったく答えてないよね。 というか、そんなことくらい素人でも分かっている。

「薬のプロってホント役に立たないわね。 私が100人もいるわけないでしょうが。 それとも、私に100回薬を飲めっていうの? 私が知りたいのは、私が35人の側か、それとも65人の側かってことよ」 って再度聴かれるだろうね。 その時にどう答えるのかな? あるいは 「私はその100人に入った記憶はないんだけど、どうしてその100人のうちの一人にされているのよ?」 って怒り出すかもしれない。 うーむ。 確かに反論のしようがない正論である。

もしかしたら 「ああ、分かりました。 それって、インフルエンザで39度の熱が出てたとして、35%くらい熱が下がるってことね。 結局、37度5分くらいに下がるのかしら?」 と受けとめる素人さんもたくさんいると思う。 とても自然な解釈である。

こんなことを書いていると、業界の小知恵が働く人たちは、「小野ってやっぱりバカだなぁ。 これって頻度論の確率そのものだろ。 確率35%。 近頃の大学教員は大数の法則も知らんのか ・・」 なんて言って呆れた顔をするんだろうな。 確かにサル的なヒトがちょっとバカであることは事実であり、自覚もしている。

でもね、こっちはその大数の法則の意味 (syntax ではなく、semantics) を疑ってるのよ。 大数の法則ってどこか変でしょ? だってさ、「次の1回の確率」 と 「多数回繰り返した時の頻度(=頻度論的確率)」 が一致するって数学的に証明したところで、「次の1回の確率」 って何だ? というそもそも論には何も答えていないんだもの。 上の二つの確率の定義が堂々巡りしてるだけ。(注 1) 「次の1回の確率」、すなわち、「あなたにこの薬を飲ませた時に薬が効く確率」 なんてものは、わけが分からないナンセンスで奇怪な代物にしか見えない。

(注 1) 「次の1回の確率」 なんて無意味、というのはリヒャルト・フォン・ミーゼス (オーストリアの数学者) の受け売りである。

この気持ち悪さって、ある患者に起きた薬の 「副作用」 を、集団での議論 (疫学的結論) に無理矢理につなげようとするときに生じる違和感と通じている。

医薬品業界人 (産官学すべて) って、結構いつもそんなふうに、自分たちがほんとはよく分かっていない概念を振り回して商売している。 いわばキチガイに刃物 (笑)。 他にもたくさんあるぞ。 例えば、製薬企業ってランダムサンプリングなんてまったくやらないのに、大数の法則中心極限定理を使って 「母集団の平均の推定」 をしている。 だけど、その 「母集団」 って一体なんだよ、それ? というか、ランダムサンプリング (i.i.d) を仮定しないと、中心極限定理ってそもそも証明できないんじゃなかったけ?(注 2) ・・ とかね。

(注 2) 母集団も何もあったもんじゃない現在の無茶苦茶な臨床開発については、後日じっくり議論する。 今の新薬の臨床試験ってほとんどビョーキである。

薬効評価でのランダム化 (二群にバランスよく分ける) の因果論を支えるルービンモデルだって、よく考えてみるとビミョーなところがある。 反現実を仮想しての議論。 つまり、 (私自身もよく使う例として) タイムマシンで、「田中さんがお薬を飲んだ状態(世界A)」 と 「田中さんがお薬を飲まなかった状態(世界B)」 を比較することで因果を判断するという理論的枠組みだが、これって世界Aと世界Bが十分に近くないとダメだよね。 例えば、世界Bで田中さんのそばで急に核爆弾が爆発したとすると、薬効評価どころの話じゃないわな (笑)。 つまり薬効評価では、反現実の可能世界に 「近い世界」 の仮定を置いているわけである。 でも 「近い世界」 って一体どのくらい近ければいいんだろう? 薬を飲んだ時くしゃみをしてしまって、鼻の穴から錠剤が飛び出しちゃった世界Bか?(笑) ちなみに、こうした議論は、哲学の認識論の教科書 (例:ノージックによる知識の定義) にしっかり出てる。

今の医薬品開発の世界には、業界人が見て見ぬふりをするこうしたブラックホールがゴロゴロ落ちている。 その様子を眺めていて最近つくづく思うのは、そうしたブラックホールを直視する好奇心と寛容さを持っているかどうかは、いわゆるリベラルアーツ (ざっくり言うと「教養」) の基礎がそのヒトにあるかどうかにかかっているのだなぁ、ということ。 私自身が無教養の見本のようなサルだが、それでも頑張って哲学のテキスト、歴史のテキスト、数学のテキストを齧っていると、本当に面白いようにこれまで見えなかったことが見えるようになるのである。

教養のご利益は会社の経営にも及ぶと思われる。 朝日新聞にこんな記事があったっけ。 化○研さんの事件の関連で。

プロの裏切り プライドと教養復権を  神里達博千葉大学

(前略)
今、日本で起こっていることは、そのさらに先を行くものにも見える。素人には分からない狭く閉ざされた領域に住む 「専門家」 が、いつの間にか社会全体の規範から逸脱し、結局は自己利益の増大、あるいは自己保身のために、社会を欺く。 この事態は実に深刻だ。

とはいえ、この状況はいずれ、世界中を悩ます共通の難問となるかもしれない。 なぜなら近代の重要な本質が「分業」である以上、この世界は専門分化によってどこまでも分断されていく運命にあるからだ。 世界を驚かせた 「フォルクスワーゲン」 の大スキャンダルは、この悲観的予測の、一つの根拠になるだろう。

ならば、この流れに抗(あらが)う方法はあるのだろうか。

おそらく鍵となるのは、かつての 「プロ」 や 「職人」 が持っていた 「プライド」 と、失われた 「教養」 であると考えられる。 すなわち、「目先の利益」 や 「大人の事情」 よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして 自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる 「生きた教養」 を再構築できるかどうか、ではないか。

そのために私たちにもすぐできることがある。 それは利害関係を超えた 「他者」 に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意 (リスペクト) を表明することだ。 人は理解され、尊敬されてはじめて、誇りを持てる。 抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性と尊敬によって世界を変えていきたい。

自分の専門以外の教養が大切なのである。 まったく同感。 医薬品業界人に決定的に欠けているもの、それは教養だ ・・・ と無教養なサル的なヒトは思う。  「れぎゅらとりーさいえんす」 なんてマントラを口先で唱えたって何の役にも立たないよ。

無料出張講義やりながら、私自身も 「教養」 学んでます。 皆さんもご一緒にいかがですか?