小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

このクソ暑いのに・・・

暑くて暑くて、オフィスに着いた時にはパンツまでグショグショなのに、パンツを脱いで干すわけにもゆかぬ今日この頃。 皆さんお元気ですか。

誰かから聞いた話なのだが、極東のどこかの島国では数年後のこんな時期にオリンピックを開催するんだってさ。 この手の拷問ってなんか呼び名があったっけ?

あ、そうそう、お金も1.6兆円くらい使うらしいよ。 毎年毎年、市が何個も消滅するくらい人口が減って、崩壊必至の年金なんてあてにできず、貧乏市民は将来マジ野垂れ死にする可能性があるのでろくに金を使えず、おまけにどこかの超大国の大統領とかいう阿呆が全否定している気候変動のせいで国中に災害が起きているのに、オリンピックには1.6兆円出すんだって。 今世紀末には消滅しちゃってるんだろうね、その国。 なんて名前の国だったかなぁ ・・・ ごめん、どうしても思い出せない。 夏バテのせいかも。

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「薬が効く」 という文の意味が分からないことについてはこれまで何度もこのブログで書いてきた。 この問題、(狭義の) 意味論的な分からなさだけでなく、認知言語学的にもとても興味深い問題であることに最近気づく。

今日はそれらが混ざったポイントの一つを紹介しよう。 サル的なヒトと業界人が会話しておる。 括弧内は心の声ね。

サル: 質問です。 ここに近藤さん(70歳) という頭痛持ちのおじいさんがいます。 近藤さんは今そこにいる現実の患者ね。 近藤さんに 2018年7月12日 22:00にアスピリン錠を飲ませます。 近藤さんの頭痛は治るかな?
業界人: 治るときと治らないときがあるさ。(このサル、バカじゃねーか?)
サル: そうですね、フツーそう思いますよね。 では、なぜあなたは 「治るときと治らないときがある」 と思っているのですか?
業界人: (けっ、案の定このサルはシロウトだ。) そんなの私たち薬のプロじゃなくても常識でしょ? 重い頭痛は治らないけど、軽い頭痛なら治る。 あとね、遺伝多型に基づくPK・PDの個人差っていうのもあるのよ。 君のようなシロウトには言っても分からんだろうけどね (・・・ と鼻で笑う)。
サル: ふーん、おじさん難しい言葉知ってるんだね。 じゃさ、おじさん、もう一つ聞いてもいい?
業界人: うん、いいよ (面倒くさいサルだな)
サル: 2018年7月12日 22:00にアスピリン錠を飲んだ近藤さんの頭痛が治ったとします。 でね、そのときの近藤さんの身体とまったく同じ状態の近藤さんがいたとして、アスピリン錠をまた飲ませたら、薬はまったく同じに効くと思う?
業界人: (こいつやっぱりバカだ。) タイムマシンでもない限りまったく同じ状態の近藤さんなんているわけないだろ。
サル: じゃあタイムマシンがあると想像してください。 いくら頭の固い業界人だってドラえもんくらいは想像できるでしょ?
業界人: (ムカー!) 近藤さんの状態が同じなら、同じに効くに決まってるだろ。 100回飲ませたら100回、1000回飲ませたら1000回、1億回飲ませたら1億回、同じに効くに決まってるじゃないか!
サル: ・・・ ホントに?
業界人: ホントだ!
サル: ・・・ ホントに? まるでラプラスのデーモンみたいなこと言ってるんだけど、自覚してる?
業界人: 効くに決まってる! (・・・ ら、ラプラスのデーモンってなんだっけ?)
サル: ねぇ、おじさんは量子力学って知ってる? 量子ってさ、事前に100%情報がそろっていても予測は確率でしかできないんだって。
業界人: て、てやんでぇ、おいらは江戸っ子でぃ!

「お薬が効く」 の意味のコアにこういうややこしい問題がある。 上の会話のサルのように 「『薬が効く』 という根源的な事象(を表す述語) は、いわば (多世界的な) 確率的なものである」 と解釈することもできるし、業界人のおっさんのように 「『薬が効く』 に (多世界的な) 確率なんて一切認めない。 薬が効くのはいわば必然、あるいはモノの本質なの」 という解釈をすることもできる。 前者がいわば量子力学的モデルで、後者は古典力学モデル (笑)。 いや、(笑) を付けたが、これはマジで科学哲学の因果関係の議論に登場するトピックなのである。

繰り返すが、両者の違いは 「薬が効いたり効かなかったりするのはなぜか」 に対する答え方に典型的に現れる。

量子力学モデルでは、薬が効いたり効かなかったりするのは 「そもそもそういうものだから。 結果を完全に予測することなどできないから」(一番シンプルに表現すると◇Ex)。 一方の古典力学モデルでは、薬が効いたり効かなかったりするのは、たとえば 「なにか世界の状態(条件)が違うから」(たとえば Ax → □Ex。 述語Aが条件ね)。 どちらのモデルで 「薬が効く」 を表現しているかで言ってることがまるで違うし、たとえば現実の姿の受け止め方や、現実に何をすべきかがまるで違ってくる。 ここまで触れてこなかったが、むろん昔から薬効評価の方法論 (統計モデルの想定) とも直接にリンクしている (固定効果 vs. 変量効果。 ただし 「モデルの想定」 が意味するところが統計学と哲学ではだいぶ違うけど)。

わけが分からん? ではガリガリ君でもかじって心を落ち着けよう。 ガリガリ君コーンポタージュ味というのがちょっと前にあったが、なんだかビミョーな味だったっけ。

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ややこしい話を続行。 でね、薬学部にいる私としては、こうした解釈の相違が単に形而上学的な興味に終わらないことを指摘したいのである。(注 1)

(注 1) こういうのを (ひらがなではない) レギュラトリーサイエンスって呼ぶんだと思う。 たぶん。

たとえば世界のがん免疫治療を先導している高名な先生のブログにこんな記事がある (これね → 2018-06-20から1日間の記事一覧 - 中村祐輔の「これでいいのか日本の医療」)。 分かりやすく言うと (記事自体も十分に分かりやすいけど)、要は、今の群間比較試験でやっているように、効いているヒトの数 (割合) で単純に薬の善し悪しを比べていてはいけないよ、というメッセージである。

このメッセージに込められているであろう先生の意図と問題意識にはむろん共感します (だからN村先生怒らないでね (笑))が、それはさておき、ここでの問題設定とメッセージの中で、古典力学モデルと量子力学モデルが (いくつかのレベルで) ごった煮になっていて、何が何だか分からなくなっている気が。 「薬が効く」 を意味論的に定義せずに話を始めているから、当然そうなる。 意地悪な哲学者 (そして言うまでもなく統計学者) がいたら突っ込みどころ満載である。

私の気がかりは、意味が混乱することで 「善い・悪い」 を判断するための倫理規範が持ち込めなくなってしまうこと。 さらに言えば、むろん 「薬が効く」 の概念の対立軸はこれだけであるはずがなく、他にも意味はたくさんありうるのだから、実のところメッセージの意味はさらに混乱しているはずなのである (私たちがサルなので混乱に気づいていないだけである)。 うーむ。

というわけで、このクソ暑いのにこんなややこしい記事を最後まで読まされた読者を気の毒に思いつつ、今日はここまで。

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良い映画は最初の5分で分かる。 この映画がまさしくそれ。 「Gifted」。

数学の天才的な能力を持った女の子とその周りにいる大人たちのお話。 悪人の登場数がとても少ないという意味でとても気分のよい映画である。 冒頭のスクールバスのシーン、 黒人の運転手のおばちゃんが 「乗るの? 乗らないの?」 という視線を子供に向けるシーン。 フォレストガンプの冒頭を思い出して、もうその時点で目がウルウルとしてしまったぞ。 はい、5億点だ。 良い映画決定。

アメリカで運転免許とった経験があるヒトはきっと思い出しましたね。 「子供を降ろすために停車中のスクールバスは、絶対に、追い越ししてはいけない」 というアメリカ道路交通の鉄の掟。 子供たちがのんびり乗り降りして、お迎えのお父ちゃん・お母ちゃんたちと立ち話なんかしている間はずっと、後続車はスクールバスの後ろでじっと待ってなければならないのですね。 でも、そういうものだと思っていれば別にイライラすることもない。

都会のビジネス街のようなところは別にして、郊外では、道路を横断しようとしている歩行者を見つけたら、横断歩道に限らず、ほとんどのアメリカ人ドライバーはきちんと停車してくれる。 「ほれ、渡れ、渡れ」 と手で合図したり、ウィンクしたりしてね。

一方、20世紀の頃に銭儲けだけは上手くて名をはせた極東の島国ではそんなドライバーはほぼ皆無だったらしいね。 横断歩道で歩行者が立っていても、ほとんどのドライバーはそれを無視して目の前を猛スピードで走り去っていくんだって。 そんな野蛮な国が地球から消えて本当によかったよ ・・・ で、なんて名前の国だったっけ、それ ・・・