小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

「治験コストの適正化」という意味不明なフレーズ

医薬品開発の業界人(産官学すべて)が使っている言葉には、定義がなく、意味不明なものが多いと数日前に書いた。 例えば、有効性、安全性、リスクベネフィット。

医薬品の専門家同士で対話しているように見えても、実は中身のある議論がまったく成立していないことがよくある。 (これを蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)といいます。 興味のある方はググってね。) ゲーム理論的には、とても興味深いのだが。

さて、日本の新薬開発の活性化の議論も、定義のない、意味不明な言葉のオンパレードである。 今日は眠いので、最強クラスの意味不明フレーズを一つだけ挙げることにする。

「治験コストの適正化」。 この意味不明語が、治験活性化5カ年計画といった公的文書に、何十年も居座り続けている。 目眩がする。

どこが意味不明か、念のためていねいに解説します。 こういう解説を、この十数年継続的に繰り返してきたのだが、今後は「ブログを読んでね」と言えるから、嬉しい。

経済学の教科書の最初の10ページほどを読めば、コスト(費用)とは機会費用のことであり、また、社会の視点からは(稀少な)資源の消費(resource consumption)であるという定義が書いてある。 これが何のことかわからない方は、治験活性化の議論に参加する前に、大学の新入生が読む経済学の入門書をまず読むことをお勧めします。 

「治験コストの適正化」を、生産の効率(生産関数、費用関数)の観点から主張しているのなら、なんら問題ありません。 「10人CRCで10個の治験」が実施(生産)できるのに、「20人CRCで10個の治験を実施している」のは非効率ですよね。 社会の視点から見たら。 わかりますね? だって20人‐10人 = 10人のCRCさんは、もし別の仕事をしていたら、その別の仕事で人類に貢献していたに違いないから。

「ちょっと待って。 20人のCRCがメシを食えるのなら、そっちの方が効率が良いじゃないの?」と思う方もいるかも。 はい、それも正しいです。 CRCの視点(被雇用者の視点)から見たら。 でも、社会における治験のあり方は、ふつうはその視点からは議論しない。

で、これまでの業界の報告書などを読む限り、「治験コストの適正化」という語を、そのような生産の効率の意味で(正しく)使っている例はほとんどありません。

「治験コストの適正化」というとき、業界人のほとんどは、コスト(cost)という語で実は価格(price)を思い浮かべているようである。 治験の価格、つまり、製薬企業が交渉・合意の上で医療機関に支払うお金のこと。 合意の上での取引価格。 医療機関への支払いが、製薬企業にとっての会計上の費用であることは誰も否定しない。 でも、変な気がしませんか? なぜこの支払だけがことさらにコストとして取り上げられるのだろう? って。 治験活性化5カ年計画に載っているこれ以外の項目は、すべて、社会の視点から費用・便益を考えているのに、なぜこの部分だけ、製薬企業の視点での費用を考えるのだろう? そう、何かおかしいのです。

価格とは、市場において表現された価値のシグナル(情報)である。 完全市場の条件が整えば、価格がシグナルとなって、経済学的な効率が達成される(厚生経済学第一・第二定理)。 しかし、価格がそのような意味での価値のシグナルとならない場合がある。 例えば、独占の場合 and/or 政府等の機関が設定する公定価格の場合。 (このあたりも大学1年生の講義の範囲です。)

モノの価格については、「高すぎる」とか「低すぎる」とか、一般論でそういう議論をしても、まったく意味がないことを理解してください。 牛丼1杯の適正価格があなたに決められますか? 10カラットのダイヤの指輪の適正価格なんてありますか? 治験の価格についても同じこと。 「1症例200万円で高い」とか「1治験2億円で安い」とか、そんな議論は全く無意味。 欧米やアジア諸国との価格の比較も、きちんとした学問の枠組みでやらないと、同様に無意味ですよ。 業界のシンポジウムや学会で、各国の症例単価の棒グラフ並べて「日本の治験はまだ高い」「安くなった」だのいうプレゼンのなんと虚しいこと。

価格が適正かどうかを議論できるのは、市場で取引される財・サービスが過剰になったり、過少になったり、といった、お客さん(社会の構成員)の実質的な幸せ・不幸せとの関連においてである。 価格が高すぎたり、低すぎたりするせいで、日本での治験が増えすぎたり、減りすぎたり、あるいは、治験の質が高くなりすぎたり、低くなりすぎたり、という話とセットで、初めて、価格が適正かどうかの議論ができる。 経済学的な効率というモノサシでの議論が成立する。

でも、これまで私たちはそんな議論してませんよね。 業界人の懸念は、「製薬企業の財布から、医療機関の財布に、たくさんのお金が移動するなぁ。 高いなぁ」という点のみ。 もちろん、そこが気になるのは当然だし、問題提起して当然。 だったら、はっきりそう言えばよいのだが、そう言うと怒る人たちが出てくる。 だから「治験コストの適正化」なんて気配り表現をするのだが、気配りしすぎて、肝心の懸念のニュアンスがどこかに消えている。 なんのこっちゃわからん(笑)。

仮に「製薬企業から医療機関にお金が移動した」として、その状態が適正かどうか、すなわち、社会の分配(正義)の問題、そして当然ながら前に述べた経済学的な効率の問題を、業界人は、治験の文脈では今まで一度も議論したことがありません。 正しく懸念を表現し、議論の俎上にのせて、ちゃんと話しあわないといけません。

どうですか。 「治験コストの適正化」というフレーズが、いかにナンセンスで無意味かがご理解いただけましたか? ・・・さっぱり理解できませんか。 そうですか。 じゃあ君には補講するから、残ってね。

でもね、こんな言葉を使っている限り、皆さんが「日本の治験コスト」なる言葉で表そうとしている懸念は(それが仮に妥当なものであったとしても)決して適正化しませんし、皆が問題の本質を勘違いしたままの状態が続きますよ。 日本人が二枚舌を使っているような、良くない印象を国際的にも与えます。

眠くなってきたので、今日の講義はここまで。 

このサル的なおぢさんは大島優子ちゃんが1位でうれしいぞ。