小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

リスクベネフィット評価には「答えがない」

先日、医薬品のリスクベネフィットについてディスカッションをしていたとき、

「医薬品のリスクベネフィットについては、『これが正解』という答えがどこかにあるはずだ。 神ならぬ人間には、その正解がすぐにはわからないけど。 私たちは、その正解に少しでも近づくよう努力すれば良いのでしょう?」

という質問を受けた。

うーむ。 これは困った。 核心を突く質問である。 この「核心」について、あえて私は説明を避けてきたのである。 答えを知らないからではなく、答えを聴いたら、この人がショックを受けて、心的トラウマで二、三日寝込んでしまうしれず、職場の大事な戦力をダウンさせてしまうかもしれないからだ。

しかし訊かれてしまったら、答えざるを得ない。

「正解は、存在しません。 神様も、正解を持っていません」

昭和の匂いがする胆石患いのアイドル岡本夏生だったら、がびーーーん!! といった感じの古いノリのリアクションをしてくれることだろう。

ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、私の回答はそういう哲学的なものとは一切関係ない。 100%論理に基づき、我々より少なくとも数百倍は頭が良いノーベル賞クラスの学者が証明した定理である。

その説明に入る前に、ここで解説している「リスクベネフィットに関する正解」の定義は、「医薬品のリスク及びベネフィットに関して、社会を構成するすべての人々の好みに基づく選択が正しく反映された帰結(例えば、用量設定の結果、添付文書の書き方の結果、許容可能な副作用発現率、費用対効果の閾値(threshold)、・・・)」というものである。 包括的でしょ? 「社会を構成するすべての人々」の好み・選択が反映される、というのが定義のポイント。 そう定義しなければ、「あなたね、私の望むリスクベネフィットを、社会のリスクベネフィットの正解としなさい!」というデビ夫人的独裁で話は終わり。

恐怖の真理その1: アロウの不可能性定理 Arrow's impossibility theorem

アロウさんが証明したのは、「社会におけるリスクベネフィットに関する正解を、合理的かつ民主主義的な方法で得ることは不可能である」 ということ。 好み・選択の合理性に関して一定の仮定を置くと、民主主義的な答えは存在しえない、ということ。 

好み・選択の好みに関する一定の合理性の仮定とは、具体的には、弱順序仮説、選好の無制約性、パレート最適性、無関係対象からの独立性。 これらの仮定は、おおむね「まぁ、そう仮定してもさほど不自然じゃないかな」と思える仮定です。 「無関係対象からの独立性」だけはちょっと受け容れ難いかも。 (詳しく知りたいヒトは、下記の佐伯先生の教科書を読んでください。)

(・・・・ あ、今、読者が一人逃げて行った(笑) こんなややこしい文章、誰も読みたいはずがないよね。 でもちょっと我慢してね。)

つまり、リスクベネフィットの正解は、上述の独裁(特定の誰か(あなたとか、私とか、彼女とか)だけの好みを反映したもの)しかありえない、というかなり衝撃的な結末なのである。 

どうっすか? こんな恐ろしいことをアロウさんは1951年頃に証明してしまったんすよ。 「民主主義は成立しない」 ・・・ どうっすか、怖くて少しチビってしまいませんか? ・・・チビりませんか。 そうっすか。

よっしゃ。 じゃあこんなのはどうっすか。 今度は間違いなくチビリまっせ。

恐怖の真理その2: センのリベラルパラドクス Sen's liberal paradox

センさんという、これまた天才的に頭の良い学者が証明したのは、「個人個人がそれぞれに譲れない強い好みや信念のようなもの(例えば「薬の副作用でヒトが死ぬことは許されない」とか)があったとしても、それらを盛り込んだ合理的な(選好の無制約性とパレート最適性を仮定した)社会的評価は存在しない」 ということ。 一人一人が持っている好みを全部反映した社会の評価方法を作ることが無理なのはわかるが、 「たった一つの、譲れない、最後の信念・好み」すら受け容れることができませんよ、という感じかな。

つまり、その意味で、我々には「自由」はないんです。

どうですか。 チビりませんか ・・・そうっすか、チビりませんか。 

チビるかどうかは別にして、これらの定理から言えることは、「論理的に突き詰めていくと、社会の幸せの評価(に関する決定)を、合理的に、民主主義的に、個人個人の好みをきちんと反映した形で、行うことはできない」かもしれないということ。

もちろん、合理的でなくてよいのなら、いくらでもリスクベネフィット評価はできますよ。 例えば「有効率を副作用発現率で割った値」なんていいかもしれない。 場あたり的で、合理性もなにもあったもんじゃないけどね。 また、民主主義的であるという条件を課さないのなら、話は超簡単。 独裁、ね。 あなた(私)が「これはいい薬だねぇ」って決めちゃえばいい。 ・・・あ、それって、業界人が今やっている「りすくべねふぃっと評価」そのものか(笑) 

ちなみに、欧州の業界・当局の人たちが試しているいろんなリスクベネフィットの指標がありますが、とても合理的と呼べる代物ではないように思います。 また、民主主義は考慮されていません。

なお、究極の形式論理の世界と現実世界を見比べて、「現実は何もかも変だ」なんてことを言っているのではありませんので、念のため。 「小野さん、ちょっと疲れているようだね」と大学の保健センターの受診を勧められても困る。

究極突き詰めていくと答えがないのを認めつつ(数学的に証明された以上、仕方ない)、しかし、そこでシニカルになるのではなく、「アロウの定理とは別のこういう条件下では民主主義は成立する」 「その仮定ではなく、別のこの仮定を使えば、こういう別の結論が導かれる」といった形で、学問はその後もドンドン展開しています。 興味のある方は勉強してください。 やや古い本だけど、佐伯先生のこの入門書は名著です。

「きめ方」の論理 ―社会的決定理論への招待―

「きめ方」の論理 ―社会的決定理論への招待―

で、今日の私のメッセージは2つ。 一つは、「皆さんがふと思いついたことは、たいてい、ギリシア以来(あるいは中国4千年の歴史で)、頭の良い誰かが、きちんとした学問体系の中で何らかの検討をしているから、ちゃんと勉強しましょうね」ということ。 もう一つは、あなたが「そんなこと当たり前じゃないか」と思っていることは、あなたが思っているほど当たり前ではないことを知ろう、ということ。

ちなみに、前にも書いたけど、「学問が存在すること」と「あなたが欲しいと思う答えがあること」は別ですよ。 「答えがない!」だの、「なんだ、その答えは!」なんて勝手に怒らないでね。

ということで、ご期待のとおり、今日はとことん理屈で終わり。 最後まで読んでくれた熱心な読者の皆さん、アリガトね。