小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

疲れ果てている日本人

今日は大阪のとある会社さんで講義。 話を聴いてくださった皆さん、お疲れさまでした。 ワケわかんない話だったでしょ? いいんですよ、それで。 あなたの見知ったSOPどおりのモニタリング業務や承認申請業務の世界から一歩外に出ると、無間の暗黒星雲が広がっていることが分りさえすれば(笑) 

例の無料出張講義の一環です。 私のやっていることは、どこか元気がなくなっている(ように私には見える)医薬品業界の若手・中堅を少しでも元気づけるための、いわば善意の押しつけである。 言ってしまえば、余計なお世話である。 好かれようと思っているわけではない。 誰かが言わなきゃいけないのに、誰も言わないことを、私が言う。 そして嫌われる。 因果な商売である。

今日の私のメッセージは、
「日本の誰よりも(医師会の方々よりも、患者会の方々よりも、厚労省・PMDA の方々よりも、学会の方々よりも)説得力のある言葉・学問に裏付けられた概念で、社会と医療・医薬品の関係を語れるような、次世代の企業人になりましょうよ。 大丈夫、しっかり勉強すれば、そういう人になれますよ」 ということ。

「社会や公益のことを語るのは、政府の人や公益的な人々(保険者だとか学者だとか)の専売特許。 我々企業人には関係ないや」という姿勢は、現実逃避です。 そういう現実逃避の姿勢が、気持ち悪い「立場利権」を蔓延させてきたのだと思います。 つまり、「『○○の立場から語る』ことができる権利は、○○に所属・帰属する人にしかないのだ。 部外者は黙っておれ」 という感じの、公的な議論のアジェンダや発表者を選ぶ際の、既得権をめぐる争いのことね。 
「・・・の立場」利権のようなもの - 小野俊介 サル的日記

私たちは誰でも、社会をエラソーに語って良いのですよ。 私たちには、皆、承認審査制度や、薬事法のあり方や、薬価制度の今後を、自分の所属する組織の利害の視点だけでなく、社会の善し悪しを大上段に振りかざした視点から、好きなように語る権利と義務があるのですよ。 だって、皆、社会の一員だもの。 語り方のお作法を勉強すれば良いだけのことです。 

講義後に、部長さんから、「でもね、今の企業の社員は、みんな疲れているんですよ。 昔は無かった書類なんかが山ほどあって、そうした体裁を整えるのに精一杯。 体裁を整えるだけの仕事であっても100点満点を目指すもんだから、優秀な社員ほど疲弊してたりする。 小野さんが言うような『社会』の構図を考えたり、会社の周囲に目を配るだけの心のゆとりが、今の若い社員には残っていない気もします」という実に鋭い、現場感覚のご指摘を頂いた。

うーむ。 そのとおりだ。 日本中、そんな感じだ。 企業も、役所も、医療機関も、大学も。

ICHだの通知の改定だのなんだのと、理解すべき治験のルールと書類は相変わらず盛りだくさん。 文書を減らして楽にするっていったって、文書を減らすための根拠となる通知を新たに読まないといけないわけだし。 治験がらみのルールのほとんどが外国産(米国産)なので、日本環境とは異質のものだったり、日本語的にしっくりこないものだったりもする。 疲労は蓄積する。 ひどいことに、欧米からの導入時に英語を翻訳間違いして、無茶苦茶な日本独自の規制が新たにできていたりもする。 例えば、ICH−GCPの導入時に英語の解釈ミスの結果、日本独自のすごいルールができちゃったのはご存知ですよね。 今日書くともったいないから、次のネタにしようっと(笑)

これもまたグローバル社会の典型的な構図。 日本の薬事制度の構成要素は、ほぼすべて、欧米からの借り物・翻訳。 だいたい10−20年遅れでやって来る。 舶来モノのルールに従うだけの国(日本)は、ルールに従うだけで精一杯で、徐々に体力を奪われて、社会の将来像を考える気力も失い、・・・。 ちょっと優等生の日本人の中には、「欧米人の先生方、私たちのやっていることを採点してください。 私たち日本人のやっていることは、欧米人の目から見て100点満点ですか?」と、そっちの方(teacher's pet)に行ってしまうのもいるし。 壮大な歴史的悪循環である。

でもね、まだ私は諦めてませんよ。 「承認審査は神事」という実態・問題意識こそが、その突破口になると考えてます。 その話はまた別の機会に。

週末、体力・気力を養って、いろんなことを考えてみましょう。 それでは良い週末を!