小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

薬の承認の真空状態は繰り返し露呈する

「NHK教育テレビの 『おサルのジョージ』 はすごい」 などと書いておきながら、土曜日朝はつい寝坊してしまい、録画で見ているサル的なヒトである。 「サルういダンス?」 は先週放送分。 邦題を付けたヒトに脱帽。 「負けた・・・ 完敗なり・・・」 と思いましたね。 いや、勝負をしてるわけではないのだが。 

まったく今の日本は、心地よい春という季節がほとんど無く、あっという間に夏に突入してしまう。 これからほぼ半年間、満員電車内のムワーーンとした熱気をただひたすら耐えるのかと思うと、暗い気持ちになる。 昨日満員の地下鉄で、私の前に座ってぐうぐうと完全に寝入っていた酔っ払いのおっさん。 表参道駅に停車中、急にガバッと立ち上がり、真っ赤な顔で 「あついっ!」 と一言叫ぶと、立っている乗客を押しのけてホームに駈け出した。 おっさん、人間は眠るとね、体温が上がるんだよ。 全くかわいくない酔っ払いのおやじも、玉のようにかわいい赤ちゃんも、体温調整のメカニズムは同じであるのが笑える。

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子宮頸がんワクチンの副作用をいくつかのメディアが報じている。 市販後の副作用の論じ方については、油断すると(私自身も)メディアでよく目にするステレオタイプで無意味な常套句 cliche や、危険なことを書いてしまうので、注意が必要である。 なにせ、これって、

新薬開発・承認の世界に大きく広がる理念の真空地帯(見ないように顔を背けて放置してきた世界)に居座り続けている主(ぬし)のようなトピック

であるからだ。

まずややこしいのが、医薬品の副作用の under-reporting の問題 (これを読んでね → 薬の副作用はほとんど報告されない - 小野俊介 サル的日記)。 副作用の多く(もしかしたら、ほとんど)は報告されていない可能性が高いという現状をどう考えるか (良いことかもしれないし、悪いことかもしれない)。 そして、メディア報道や規制当局・企業の措置(をメディアが報じること)によって副作用報告数が増えたり、減ったりすることをどう解釈し、どう評価し、どう対応すべきか(あるいは放置するか)。 日本国内で、真正面から(良い悪いの先入観や政治的な立場抜きで)これらが議論されているところを、私は見たことがない。 世の中に出てからの薬の姿、すなわち社会での副作用の出方や薬の効き方の本当の姿を我々は知らないのに、平気な顔をしていられるのは、なぜだろう?

でもね、それって、「『どんなお薬を承認し、どんなお薬を承認しないか』 が見事に空白で、本当は誰も何も合意していない状況で判断されている」 という日本の現実に照らせば、不思議でもなんでもないのである。 社会に薬を出すかどうかの最後の関門である儀式(承認審査)において、「社会に出てからの薬の姿が、これなら良し。 これならダメ」 という決定を、誰一人として社会で合意された基準に則ってやっていないのだから、いざ社会に出てから薬に何が起きたってその良し悪しを論じられるはずがないのである。 

社会選択論の目で極論すると、我々が今やっていることは、なんとなーく薬を世に出して、なんとなーく見守っているだけ。

「お薬を承認する・しない」 の考え方の真空状態については、このブログでも何回も書いてきたので、詳しくはそれらを読んでください。 例えば、モノしか見ない、世界の王様たち - 小野俊介 サル的日記 とか、「関連する規制を緩和する」だって - 小野俊介 サル的日記 とか、リスクベネフィットの考え方 再び - 小野俊介 サル的日記 とか。

「承認審査の根本的な考え方の不在」 を軽く考えて、「チェックリストを作りました」だの 「審査のガイドラインを作成しました」 だのといった小手先で解決できると信じている業界人(もう解決済みと考えている幸せな方もいる)には申し訳ないが、これって、そんなに簡単な問題じゃないぞ。 たぶん 「れぎゅらとりーさいえんす」 をゆるーく唱えている医学・薬学の専門家には重すぎる問題だ。 欧米の真似をしても無駄だよ。 FDAも、EMAも、日本と同じ状況だから。

子宮頸がんワクチンの評価で、そうした空白状態がはっきり目に見える形でわかるのが、例えば臨床試験の比較対照薬の選択に対する無頓着さだったりする。 対照薬として、(a) 本当の(こういう言い方は変だけど)「プラセボ」を使うのか、 (b) アジュバント入りの「プラセボ」を使うのか、(c) それとも他のワクチンを使うのか。 これらの選択には、狭義の薬効評価上の効率を超えた価値判断が含まれていることを、業界人は正しく理解しているだろうか。(注 1) どうもそうは見えないのが不安である。

(注 1) いわゆるプラセボ効果を社会の中でどう位置づけ、どう活用するかという問題(=お薬の社会における価値の問題の一つ)ともつながっている。

日本と欧米では、Labeling における医師や患者に対する副作用情報提示のスタイルが違うのはよく知られているが、欧米流に 「プラセボ」「対照薬」 と 「本薬」 の有害事象を並べて書くスタイルでは、「何を比較対照薬とするのか」 によって、「薬を開発したり、承認したりした人たちが、薬(副作用)の社会的価値のどの部分に重きを置いているか(何を所与として、何を無視しているか)」 が自ずと見えてくる。 というか、隠しようがない。 で、見えてきた価値判断に賛同するか、あるいは反対するかは、あなた次第であり、そこから先は、例えば、民主主義の問題となる。(注 2)

(注 2) これが(も)社会選択・公共選択の問題だ。

一方日本では、副作用の因果関係判断や添付文書での情報提供に、医師個人の(価値)判断が入り込んできて、またここでも 「新薬開発の段階で、副作用について、誰が、何に、どう重きを置いているのか」 が構造的に見えにくくなっている。 類薬との比較もしにくいし、海外データとの比較もしにくい。 裏を返すと、社会における価値判断を、誰かが積極的にしなくてもすむ状況で話が進む。 「良い」とも「悪い」とも言わせないための材料を意図的に作っている感じだ。 そんな状況だから、 「社会で合意された基準が必要だ」 なんていう声も出にくいわけである。

でもね、賢明な業界人は、もう既に骨身に染みてわかっているはずなのだ。 お薬の承認という判断の背後に開いている大穴・真空状態から必死に顔を背けてみたところで、気まぐれメディアから、何年かごとに、 「これは薬害ではないか?」 と叩かれるたびに、否応なしにそれを思い出さざるを得ないことを。 逃げても無駄なのです。 何十年もかけて議論をする覚悟を決めて、まずは、大穴・真空状態の本質を真摯に理解することから始めてはいかがだろうか。 きちんと理解することだけでも、たぶん、大仕事ですよ。

こうした医薬品評価の根っこをコツコツと築いていけば、うまくいけば私たちの孫くらいの世代で、今よりは皆が少し幸せな 「医薬品とともにある社会」 が広がっているかもしれない。 

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今日は 「サルういダンス?」(笑) とはかけ離れた、理屈っぽい話になってしまった。 毎度のこととはいえ、申し訳ないっすね。 次回はユルユルで。