小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

法律の名前を変えたくらいではブラックホールは埋まらない

先週金曜日はNHKの夜のニュースに出演し、薬の添付文書に書いてある 「禁忌」 とは何かについてコメント。 が、キャスターの方の質問と私の回答がなかなか噛み合わない。 だって、とても難しいんだもの。 「禁忌」 のまわりには大きなブラックホールが開いているからだ。

「添付文書ってなんだよ?」 という根本論がまず難しい。 それを考えるには、「薬事法ってなんだよ?」 という根本論がさらに必要になる。 薬事法って、基本、ビー玉型や円盤型をした小さな物体 (液体や気体のこともあるが) に、ペタンとシール (ラベル) を貼って流通させろよ、という法律だ。 なぜかというと、その小さな物体が小さい割にやたらと危ないから。 うっかり飲むと死ぬこともある。 テキトーにコンビニの棚や幼稚園のロッカーにラベルを貼らずに放っておいたり、行商のおばあさんが昨日採れた大根と一緒に売ったりしては危なくて仕方ない。 だからちゃんとラベルを貼って、それとわかるようにする。 これが薬事法の基本だ。

ところが、世の中の人々はその基本的ご利益ではなく、ペタンと貼ったシールに書かれている内容の方にばかり執着する。 人々が気にするのは、いわば単なる 「おまけ」 にあたるシール (ラベル) ばっかり。(注 1) はっきり言って、法の基本性能と人々が法に期待することが噛み合っていないのだ。 噛み合わないことを承知で何十年も放置している。 これが問題の根っこである。

(注 1) 「おまけ」 が大切でないと言っているわけではない。 誤解せぬように。

で、シールに書かれている内容って、つまりは薬の使い方、いわゆる効能・効果だったり、用法・用量だったりするのだが、薬事法って 「効能・効果をシールに絶対に書けよ。 いいな、おまいら、絶対にだぞ!」 とエラそうに命じるわりには、「効能・効果って何?」という問には一切答えていないのだ。 定義もない。 私もこの業界に 30年近くいるが、恥ずかしいことに、「効能・効果」 なる日本語の意味がさっぱりわからない。

「効能・効果」 が現実にどう使われているかは、多少はわかる。 例えば 「効能・効果」 って、お上公認の薬の宣伝文句として使われる。 そうした宣伝文句って、積極的なアグレッシブな姿が正しいのだろうか、それとも謙抑的に控え目にすべきものなのだろうか? 薬を 「使うべき」 なのか、「使った方が良い」 なのか(「良い」っていったいどんな倫理に拠るのだろう?)、「使うことを許す」 なのか、「使うことを禁じない」 なのか、「使わなくても良い」 なのか ・・・ あたりの温度も分からない。

「その疾患に効く」 というエビデンスが見つかったら必ずそう書かねばならないのだろうか、それとも企業のビジネス上の都合で 「いやね、ダンナ、効くことはアッシらも分かってるんですけどね、会社の都合で効能・効果には書きませんぜ」 は許されるのだろうか? 

効能・効果ってたいてい疾患名 (例:糖尿病) だけが書いてあるんだけど、もしそれが宣伝文句なのなら、「病気が治ります」 とか 「病気が5割くらいは治りますけど、3割くらいは治りません」 とちゃんと書かないと、まともな宣伝文句になってないじゃあないか。 「○○がん」 と効能・効果に書いてあっても、多くのがんは(文字通りの意味では)治らないんだが、これって誇大広告だろ? ・・・ なんてのもさっぱり分からないところだ。 今、N社の誇大広告とやらが刑事事件にまで発展しているが、そもそも薬事法に従った効能・効果はすべて誇大広告といえば誇大広告なのだ。

効能・効果や用法・用量をどのくらい信じていいのかも微妙である。 歴史的にみると、承認される新薬の数%(2−3%程度)は 「あいやー、承認したこと自体が大失敗だったよ」 と承認が取り消されるくらいの状況である。 警告やら禁忌やらは四六時中追加されるし。 数年前まで禁忌だったものが、急に適用になったりすることもある。 書かれていることがコロコロと変わるのが常識なのだ (そしてそれが医学の進歩である)。 「私は添付文書に書かれた承認内容を100%信じます。 何があっても書かれた通りにしか処方しません。 私は医師として添付文書に準じる(従う)覚悟ですので、あなたも患者として添付文書に殉じてください。 お上の承認内容にあなたの命をかけてください!」 などという頭のネジが飛んだ医者がいたら、そういう医者とはあまりかかわりを持たない方が賢明だ。

こうした点すべてにまともな答えが無いのだから、薬のプロが一般人に 「添付文書には標準的な使い方が書かれているんですよ。 添付文書に従って正しく薬を使いましょうね、皆さん」 なんて言ってみたところで、説得力がないことおびただしいわけである。 「あんたの言う標準的ってなんだよ? 正しくってなんだよ? ワケわかんないよ」 と不信感を持たれて当然だと思う。 また、素人さんに 「禁忌って何?」 って尋ねられても、答えられるわけがない。

むろん世の中では現実として、薬事法の規定や法に基づく決定をいろいろな場面で使っているわけです。 例えば、用法・用量に反する使い方で患者が亡くなったら、医師は刑事でも民事でも負けるとか、そんな風に裁判官は薬事法の用法・用量を解釈している、とか。 それで世の中はちゃんと回っているように見える。 薬事法の中では用語の定義も意味もろくに書かれていないのに、世間の人たちが後付けで勝手に意味を作ってくださっている感じだ。 ありがたいことである。

でも、薬害や今回のようなややこしい事態が発生すると、お人好しの世の中の人たちにもさすがに意味が分からなくなる。 「そもそも薬事法ではどうなってるの?」 とこっち (薬のプロと称される我々) を一斉に振り返るのだ。 ところが困ったことに、薬のプロは誰も答えを持っていない。 というか、重要なそもそも論を考えたことすらない。 基本、他人任せですから。

「効能・効果」 の意味を、温度を、ニュアンスを、ホントは誰も知らないという現実。 「どのようなお薬を承認するか」 をホントは誰も知らないのに、なぜだか新薬は承認され続ける(時に承認拒否される)というブラックホールは何度もこのブログで書いてきたが、薬事法で使われている言葉に定義が無いという事実は、このブラックホールの重要な構成要素の一つでもある。

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どうにもこうにも元気がでない。 こんなニュースを目にするからだ。

厚木の男児白骨遺体 「パパ、パパ」とすがる息子に「怖くなり家を出た」
産経新聞 6月 9日(月) 12時 50分配信

 神奈川県厚木市のアパート一室で○○ちゃん=当時(5)=が白骨遺体で見つかった事件で、父親でトラック運転手の△△容疑者(36)=保護責任者遺棄致死容疑で逮捕=が、「亡くなる2カ月くらい前は仕事が非常に忙しくて週1、2日しか帰らず、(○○ちゃんは) がりがりになってしまった。この状態が続くと死なせてしまうかもと思った」 と供述していることが9日、県警への取材で分かった。

 捜査関係者によると、△△容疑者は 「痩せた経緯が分かってしまうのが怖くて、病院に連れて行くことができなかった」 とも供述。生前最後の姿を見たのは○○ちゃんの死亡に気付く約1週間前で、「立ち上がることもできず、か細い声で 『パパ、パパ』 と呼んでいた。その場にいるのが怖くなり、1時間も一緒にいられずに家を出た」という。

 ○○ちゃんは平成19年ごろに死亡したとみられている。

この子がこの世界で最後に見たものはなんだったんだろう。 胸が張り裂けそうで苦しい。

これが世界のありのままの姿だとしたら、こんな世界は塵芥ひとつ残さず消え去ってしまった方が良いと心底思う。

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東京は暖かくなってきた。 うちの近所の架橋下の、路上で寝ているおっさん(推定60歳)にとっても楽な季節だろう。 しかしあいにく今日は都内は冷たい雨。 仕事の帰り道、おっさんはどうしてるかなぁといつもの寝場所を覗いたら、毛布をかけて横向きで眠っていた。 

頭のそばには、シケモク (吸い掛けの短いタバコ) が数本、大切そうにガラス瓶の中にしまってある。

じっとおっさんを見ていたら、このおっさんにもお父さんとお母さんがいて、大切に育てられた子供時代があったのだと、ふと気付く。 どうしてそんな簡単なことに今日まで気付かなかったんだろう。 誰にだってお父さんとお母さんはいるさ。

路上のおっさんは、お父さんとお母さんの夢を今でも見るのだろうか。

通り過ぎる車のライトがおっさんの日焼けした皺だらけの寝顔を一瞬照らす。

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我が家で飼っているカブトムシ、最初の一匹目が土の中から出てきた。 連中は、土の中で11カ月、地表で1カ月、計1年の命だ。 ペットボトルの中で羽を乾かしながら、地上に出てくるタイミングを待っているアンタら、無事大人になれそうで良かったなぁ。 でも、命は儚いねぇ。 宇宙時間の縮尺では、僕ら人間の命もお前らの命と大して変わらんのだよ。 この世での一瞬の逢瀬を楽しもう。

今年最初に出てきたカブトムシさんは、お空に逃がしてやることにしよう。 虫遊びの楽しさも知らずに逝ったあの子の遊び相手になってやってくれないか。 頼んだよ。