小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

「日本人はこのくらい我慢しろよ」と日本支社の日本人がいう

マイク○ソフトが嫌いである。 サラリーマンとしてはマ○クロソフトのオフィスを使って仕事をせざるを得ないのだが、最近イライラするのはこれである。

そうです、皆さんもご経験ありますね。 パワポのデフォルトで漢字のフォントが中国語になってしまう件である。 他の文書から漢字をコピペすると、中国語にその漢字が存在する場合には、まずは中国語優先になるらしい。 それがマイ○ロソフトによる日本と中国の評価なのね。 

中国語になってしまうことのダメージはケースバイケースである。 「薬学系研究科」 なんてのは、「系」って漢字がやたらと達筆になったくらいで済む。 P○DAさんは 「薬」 の冠が離れちゃっているが、このくらいなら看板は傷つかないか。 石原大臣の肩書は国語の試験では×がつけられちゃうかも(笑)

こういうフォントでも皆さんは平気なんですかね。(注 1) いや逆に、中国の人々に多少なりとも媚を売らねばならない状況では、むしろこのフォントを嬉々として使ってプレゼンをしているのだろうか。 ビジネスとは難儀なものだ。

(注 1) 中国人がこの記事読んだら、「お前はバカだなぁ。 漢字は中国オリジンに決まってるだろ。 妙な漢字もどきを使ってる日本人ごときが何を言うか」 って大笑いするんだろうなぁ。 そのとおりだ。

私はもちろんこの状況がとても不愉快であり、困っている。 漢字をコピペするたびにほぼ間違いなく中国語になり、そのたびにフォントを修正するのはたまったもんじゃない。 日本中のイライラと非効率の蓄積を金額で表すと一体どれほどだろう。 誰か集団訴訟を起こすヒトはおるまいか。

○イクロソフトにも日本支社というのがあって、そこの支社長とかいう連中が新製品発売ごとに(こともあろうに)胸を張ってインタビューに答えているのを目にするが、この人たち、今の状況をなんとも思わないのだろうか。 仕方ないと思ってるのかね。 日本向けの商品パッケージではデフォとして日本語フォント優先にすることを、本社の目の青い連中に進言することすらできない状況なのだろうか。 日本人顧客の好みなんぞ、まぁどうでも良いから、早く低コストで日本で発売することを優先しよう、とマイク○ソフト日本支社で働く日本人がたぶんそう思っているんだろうなぁと推察する。

・・・・ とここまで書けば、私が今日書きたいことはもうお分かり頂けたことだろう。 そう、いつもの話だ。 医薬品業界は、マイクロソ○ト社以上に、壮絶に、壮大なレベルで、日本人顧客の好み、いや下手すると好みどころか命の沙汰まで無視しているかも、という点である。 それも当局公認のもとで。

なんせ 「国際共同試験では外人と同じように薬が効いたという結果が出るように計画せよ」 という開き直ったガイドラインが堂々と出ている国ニポンである。 また、薬効の人種差 (集団間の差) があるかどうかというレベルの正当化で、歴史ある独立国家が国民のために行使すべき権利と義務をあっさり放棄して、「薬の効き方が大体同じだと予想されるならば、アメリカ人も、日本人も、中国人も、パプアニューギニア人も、全員まとめて 『一つの集団』 とみなしていいよ。 それで承認してあげるから。 国際共同試験、レッツ・スタート!」 なんてジョン・レノン並の無国境主義を勧める国ニポンである。 Public health と産業政策の危険な tradeoff の存在に気付くことすらできないニポン人。

この理屈でいけば、製薬企業が 「実は、日本人とワンコとニャンコとおサルさんは 『一つの集団』 と見なせるんですよ、薬効評価的には。 だってPK/PDのプロファイルがほぼ同じだから。 ということで、サル的な感じで種族共同試験やりまぁす(はーと)」 って小保方さん風に宣言して治験届を出せば、ワンコとニャンコとサルと日本人が参加する動物・人間兼用の薬の共同試験も認められるのかもしれんな、ニポンでは。 効能・効果は 「肥満」 とかね。 ワンコと一緒に被験者になれるなんて、それはそれでちょっと幸せかも、と思う自分がいたりして。

日本・日本人の自由・権利はどこへ行ったのだろう? 自由だの権利だのといった、そんな古臭い概念をきちんと教えてくれる医学・薬学系の大学院なぞどこにも無いから、何を言っても通じないのかね。 れぎゅらとりーさいえんすと称する業界リーダーによる布教活動ではそんなややこしいことは教えないんだろうなぁ。 あるいはもしかして、あなたたち今頃になってみんなポストモダンを気取ってるのか?

「自由・権利といった形而上学的な概念はともかくとして、現実に日本人が健康でいられて、危ない目に遭わなければいいのよ」 という人たちもいるだろうが、その最低限の願望さえも守られていないのでは? 最近、日本人に発生した副作用 (死) でメディアに叩かれたお薬がいくつかありますよね。 そういったお薬の開発経緯を見たら、国際共同試験・開発を旗印にして 「日本人も欧米人も同じ用量で大丈夫です」 なんて企業も当局も言ってたような気がするが、私の勘違いかなぁ。

「日本人と欧米人の違い」 って、企業が見つけようとしなければ決して見つからないのよ。 企業がそれを見つけないように (違いが統計学的に検証されないように) 開発しようと思えば、いくらでもそうできる。 だからこそ、小うるさいゲートキーパーであり、納税者の希望の星でもある規制当局が存在するのだが、ここニポンではどうもその当然の役割が期待できない状況である。 ここ二十年くらいは、どっちが産業界代表かわからないんだよね。(注 2)  さらに危ないのは、やれブリッジングだの、やれ国際共同試験だのと、素晴らしい理屈を用いて、演繹的な正当化 で、お薬を承認し続けていること。 (注 3) お薬の開発や承認が演繹的な理屈で可能になるほど人類の科学レベルは進化していないと私は思うぞ。 サルがそう言うのも僭越だけど。

(注 2) つい最近も 「先駆けなんとか」 とかいう文書を見てたら目眩がしてきたよ。 産業論と health maxmization の混ぜ方がなんとも ・・・ 

(注 3) 最近は 3-layer アプローチとかいうファンシーな概念も提唱されているらしい。 でも説明をよく見ると、相変わらずベネフィットとリスクの天秤なんかが登場する古典的意味不明神事の延長にすぎないように見えます。 

業界人(産官学すべて)が懸命に新薬開発の仕事をしてることは実にすばらしいし、その成果には敬意と報酬が払われるべきだと思う。 その上での話なのだが、しかし、日本のお客さんをもう少し大事にしませんか、業界の日本支社の方々。 上のパワポの中国語によって日本の顧客が迷惑しているように、医薬品業界も、ここ二十年間くらい、それよりもずっと大きな迷惑を日本のお客さんに (リスクとして) 引き受けてもらっているような気がしませんか。 

「お客さんは病気を治して健康になるために薬を飲むんだから、企業が早く薬が販売することに感謝すべきで、多少の我慢やリスクは当然だよ」 とマジな顔をしていう業界人がいるのだが、副作用で死ぬのって多少の我慢じゃない。 国民が無料奉仕で自らの肉体を供出して製薬企業の製品開発の材料 (時に犠牲) になってあげていて、お上も国を挙げてそれを奨励するという大政翼賛会も真っ青の驚くべき 「社会の恩」 をすっかり忘れて、そんな自己正当性を顧客の前で堂々と主張するビジネスって、医薬品業界だけではなかろうか。 さらに言えば、上市の速さと未知の副作用発生リスクのトレードオフの社会的評価は先のイレッサ訴訟で決着がついたわけではないし、裁判官に判断を任せるような問題でもない。

ブリッジングやら国際共同試験とやらを機械的に活用して、横着した演繹的な開発・承認をしたせいで、次に重篤な副作用がらみの事故を引き起こして世間の注目を集めるのはどの会社のどの品目だろう。 いつものように次の悲劇の発生を待つことしかできないのかと思うと、辛い。