小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

高倉健さん、さようなら

高倉健さんが亡くなった。 寂しくて、やる気も元気もまったく出てこないや。

僕らの世代は、団塊の世代の方々が涙したいわゆる任侠モノではなく、その少し後の映画の健さんに涙したのである。 ヤクザ映画だが純粋なヤクザものとはもはや呼べない 「冬の華(1978)」(池上季実子から 「おじさま」って呼ばれる映画) あたりから始まり、「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」、「南極物語」、「居酒屋兆次」、「夜叉」 ・・・ と途切れることなきシブイ感動作と共に学生時代を歩んだのであった。 健さんが 「タロ! ジロ!」 と叫べば、ワンコにだって涙したのである。

アンディ・ガルシア松田優作もシブかった 「ブラックレイン」。 「鉄道員(ぽっぽや)」 にも泣いた。 向田邦子原作の 「あ、うん」 もたまらなく切なかった。

遺作となった 「あなたへ」 では枯れた健さんに涙した。 昔と比べて明らかに足が細くなり、おじいさんになった健さん。 でもいいのだ。 どんな健さんでも、あなたは高倉健だ。

田舎の小さな食堂 (レストランではない。 「食堂」 である) のパイプ椅子にきちんと座って、店員さんに丁寧な言葉で定食とビールを注文する姿があれほど似合うおじさんはいない。 その姿だけでも、僕は、この昭和の大俳優が好きで好きでたまらない。 

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最近、他にも何人もの訃報に接し、悲しい。

あの宇沢弘文先生。 東大の経済学の大先生である。 一度会ったら二度と忘れないあの独特の風貌。 私が学生時代には、本郷の構内を短パン・ランニング姿で走る姿を目にして、「なんであんな怪しげなおじいさんが構内にいるのだ?」 と不審に思ったものだった。 宇沢先生が日本が世界に誇る天才経済学者であることを知ったのは、恥ずかしいことに、海外の大学院で経済学をちゃんと勉強した時である。 「教科書のあちこちに出てくるこの Uzawa って、あの髭ぼうぼうのおじいさんだったのか!」 とびっくり。 当時の自分の無知が情けなくて涙が出てくる。

実はつい数年前までは 、渋谷の界隈を昔と同じような短パン・ランニングでジョギングしている姿をお見かけすることがあったのだ。 相当にご高齢のはずなのに、歩くスピードは昔と変わらず高速で、まるで仙人様のようだった。 近所の小学校の運動会や公園でも、遊びまわる子供たちの中に溶け込んだ先生のお姿を時々拝見した。 どこかで先生の著書にサインをしてもらうチャンスはなかろうか、とずっと狙っていたのに、それが叶うことなくいってしまわれた。 とても残念である。

全然方向が違うが、作家・作詞家の山口洋子さんも最近亡くなった。 ちょっとふくよかな、実に艶っぽいおねえさまだった。 私の世代よりはだいぶ上の世代であるのだが、そう、僕らラジオっ子たちは、1980年頃、日曜深夜 12:00 からのTBSラジオ 「その人を愛せますか」 という彼女の番組を聴きながら、おねえさまたちの大人の恋愛話に秘かに胸を躍らせていたのであった。 当時の中学生や高校生の洟垂れ小僧どもに大人の恋愛の何が分かっていたのかは分からぬが、とにかく、「ふーむ、オトナの色恋の世界は甘く、苦く、大変なモノなのだなぁ。 自分たちはいつになったらオトナになれるのだろう ・・・」 などと期待と不安に包まれていたのである。 山口洋子さんの優しい声を聴きながら。

ちなみに、山口洋子さんの番組の後、深夜 12:30 からは大橋照子おねいさんの 「ラジオはアメリカン」、通称 「ラジアメ」 という、こちらも相当にディープなファン層に支持されていた番組であった。 ♪ 動物園に行きましたー である (わかるヒトにはわかる)。

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最近の訃報に接するたびに、人間の生き死にの境目はそれほどはっきりしたものではなくて、「ヒトは少しずつ死んでいくのだなぁ」 とますます考えるようになった。

私の頭の中にいる人たち、私を形づくり、私の記憶の表面や奥底にいる人たち (身内も、友人も、単なる知り合いも、テレビの有名人も、学者も、善人も、悪人も、とにかく私が覚えている人) のうち、生きている人の割合が減ってきたなぁとしみじみ思う。 

孔子マリー・アントワネットといった歴史上の偉人まで含めれば(笑)、今私が知っているヒトの8割か9割は、すでに死んでしまったヒトだ。 皆さんもだいたい同じでしょ? 生きている人の割合はせいぜいが1、2割。 その1、2割もだんだん減っていく。  そして、私の知っている人すべてがあの世のヒトばかりになったら、私が仮にその時息をしていたとしても、すでに私はこの世のヒトではあるまい。 そのときの私が幸せか、あるいは不幸せかは、今の私にはわからない。

「自分のことを覚えていてくれる他人がすべて死んだときに、ヒトは死ぬ」 という有名な言い伝えもある。 この言い伝えどおりなら、私が息をしなくなっても、その後数十年は私は生きていることになる。 皆さんがサル的日記を覚えている限り。 いや、正直言って皆さんの記憶力にはさほど期待してませんのでご安心ください。 

このブログを読んでいるあなたも私も、たぶん、結構な程度死んでいるけど、そこそこは生きているって状態なのだろうね。 でもそれで十分だ。 そしてね、ほら、最近亡くなられたあの人も、だいぶ前に亡くなった愛するあの人たちも、実は私たちの状態とさほど変わらないのかも。 ほとんど死んでるけど、少しだけ生きている。 それで十分嬉しいよね。

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高倉健さん、宇沢先生、山口洋子さん。 さようなら。 時代を楽しく共にできました。 ありがとうございました。