小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

バカ発見器

すまんすまん。 だいぶ更新サボってました。 サル的なヒトは元気ですから、ご心配なく (一部の人たちはガッカリしてください)。 このところ細かく用事が入っていて、夜、「さて、ブログでも更新しますか」という気分になれなかったのだ。 この数週間、暑さで精神的にやられている感もある。 朝の出勤時、昼食時、夜の帰宅時と、一日三回きっちり汗だく・びしょびしょになるのはホント疲れるよね。 満員電車の中で、首元・胸のあたりから中年腹のあたりにポタポタと汗が落ちるのを感じると、なんだか絶望的な気分になる。

金曜日は大阪の日本臨床睡眠医学会で講演。 K先生、T先生、お世話になりました。 講演前の打ち合わせで両先生に 「私の話を聴くとイライラして、怒り出す人たちが出るのですよ。 この学会の参加者はどんな感じの人たちですかね?」 と尋ねたら、K先生大笑いしながら、「ああ、それなら大丈夫。 この学会では心配無用です。 大会長のT先生を含め、参加者は笑いのセンスに優れた関西人が多いですから。 あとね、ほら、ココ、読んでくださいよ」 と言いながら、プログラムに書かれた参加者へのメッセージを指差した。

熱く議論しても 礼を失せず、喧嘩はしない でください。 議論しながら一緒に学んでいける仲間はなによりの宝です。

おおっ、素晴らしい。 まるで幼稚園児向けの注意事項 (笑) だが、このような社会常識を皆で確認しておくことには大きな意味がある。 だって、大学の先生、学者、医療関係者、お役人、企業のおエラいさんって、高度な知性を売りにしているはずなのに、すぐに頭に血が上る原始人 と大して変わらないんだもん。 サルの惑星に登場する指導者ザルのシーザーよりも感情のコントロールができないよね。 もちろん自分もその一人。 だが、ワシはいいのよ、サルだからな。

これまで数多くの学会で発表・講演をしてきたが、何度かとても不愉快な目にあった。 一番ひどかったのは、7、8年ほど前のある臨床系のシンポジウム。 シンポジストの一人として医薬品研究開発政策の今後について発表したら、座長のおっさん高名なセンセイがいきなり 「君の発表は不愉快だ。 まるで現在の日本の新薬開発にうまくいっていないところがあるような言い方だ。 本気でそんなことを言っているのか? 釈明しなさい!」 と大声で恫喝してきたのだ。 実話よ。

申し訳ないが、バカ丸出しである。 すべての政策・施策や企業の戦略が思うとおりに、夢のようにうまくいくのなら、現在の日本がこんな長期低迷傾向に陥っているわけがあるまいに。 というか、もしそうなら、こんなシンポジウム開く必要すらあるまいに。 それよりも何よりも、日本をちょっと困った現在の状況に導いたのは、井の中の蛙でふんぞり返っていたあんたら世代だぞ。 責任とらなきゃいけないのは、アンタらだろうが。

・・・ と本気で言い返してやろうかと0.38秒くらい考えたのだが、そこでバカの挑発には乗らなかったサル的なヒトは立派であった(自画自賛)。 「私の提案は、日本の新薬開発のすべてがうまくやれていると信じている無邪気な方々にとっても有益ですよ。 なぜなら、私の提案は、それらをさらにうまくいかせるために役立ちますから」 と切り返したら、まったく納得していない不愉快な顔で、「それなら結構。 では次の演者の講演に移ります」 だってさ。

他にも、情報の非対称性の帰結 (非効率) について私が説明してたら、フロアからいきなり 「そんなことはないっ!」 って怒鳴ってきたオッサンセンセイもいたなぁ。 ノーベル賞の授賞理由になった理論をあんたが否定するのもどうかと思うがね。 講演の後の質問と称して、世間の凝り固まった常識や自説を延々と展開して、「あなたの講演はつまらなかった」 だの 「あなたの発表は建設的ではない」 だのとネチネチとケチをつけてくるおっさんセンセイもいた。 ちなみに、そのセンセイの話が面白い・建設的という評判は一度も聞いたことがないけどな。

ほとんどの聴衆は、「ははは、小野さん、また妙なこと言ってるぞ。 妙なことを言ってるけど、普段はあまり耳にしない意見だよね。 ちょっと耳を貸してやるか」 と鷹揚に構えて、ゲラゲラ笑いながら話を聴いてくれるのよ。 この業界の皆さんの多くは、十分なユーモアのセンス、知的好奇心、異説に対する寛容さ・リベラルさを持っているからね。 私の講演を聞いて怒り出す輩は、これらのどれかが致命的に欠落してるのだろうなぁと思う。 かわいそうに、バカ発見器に引っかかってやんの。 

大阪での学会講演では、講演後の質問も含めて、とても楽しい、有意義な意見交換ができました。 バカ発見器に引っかかる人など皆無。 さすが関西人。 今後、先生方のお手伝いができる機会がありましたら、いつでも馳せ参じますので、遠慮なく声をかけてください。

ちなみに、学会ではこんな話をしましたよ。

新薬の承認審査 −決めることと、決めていないこと−

 新薬の承認審査の本質は、そこに登場する当局職員、製薬企業社員、専門家と称する医師などによるルール下の交渉と意思決定である。 「科学 (統計学等)」は大きな顔をして登場するが、本当の主役ではない。交渉で何が決められ(例:薬の外箱に記載される事項)、何が決まらない(決めていないこと、決められないこと)のかの境界線が曖昧なままだから、新薬の引き起こす諸問題がすぐに社会問題に発展するのはむしろ当然のことである。

 使われている基本用語が定義されていないことを知っておこう。 例えば薬事法に登場する「有効性」と「安全性」。驚くべきことにこれらには機能的な定義がない。 基本用語の定義が不在のまま、新薬の研究開発・承認審査で激論が交わされる光景を目にするが、議論はどこにも辿りつかない。 小児へのプロポフォール注の投与の是非で注目を浴びた「禁忌」という言葉にも明確な定義はない。 規制における文法 (syntax) だけが存在し、意味 (semantics) が存在しないのだから、何が起きているのかが誰にも分からない。 と同時に誰も何の責任も負わないお気楽な状態とも言える。

 承認の判断の際に「誰が」「誰の」幸せを考えているのかが分からないことも注目すべきである。 「患者の幸せを考えるに決まってる」と企業社員も当局職員も答えるが、その「患者」って誰だろう。 承認審査に登場するのは臨床医が目にする実名の患者ではない。 名前が無い名無しの患者である(最近では名無しが青い目だったりする)。 現在の医薬品評価は「患者」が名無しなのをいいことに、勝手に仮想の平均人を造り出し、平均人での価値をその新薬の価値にしてしまう悪習が蔓延している。 かかる構図を嘲笑するどころか、逆に標準としてしまう医学・薬学って恐ろしい。

 「誰が幸せを考えるか」の「誰が」も怪しい。 「自分(私)以外に誰がいる?」と皆答えるが、他人の幸せの姿を正当化する根拠を「私(例:小野俊介)」で済ますとは、ずいぶんと大胆なことである。 「ワタシ的にはOK」と同レベルの怪しさだ。

 現在の承認審査は、真っ黒な「顔無し」が、真っ黒な「顔無し」の幸せを考える市場経済の論理・倫理で動いている。 市場経済はパワフルで素晴らしいが、それに顔のある実名の人々の幸せを共存させないと、私たちの医療はこの先もずっと市場経済の暗部にも翻弄され続けることになる。 考えましょう。

というわけで、久しぶりの更新でした。 暑くて死にそうだけど、生き延びましょうね。 

今日は大岡正平の 「野火」 を読み返す。 映画も公開されるのですよね。 人間は基本バカだから、「自分が兵隊には絶対にならない」、つまり「自分のところには絶対に銃弾が飛んでこない」 「自分の銃で人間を動かぬ肉の塊にしてしまうことはない」 と信じていると、「自分たちは正しい戦争ができる」 などと夢想してしまうのだよな。 愚か。