小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

手柄は独り占め

このブログ、時事ネタは基本避けているのだ。 だって、書いた後すぐに事情が変わったり、新しい証拠が出てきたときに、こっそり内容を書き直すのって格好悪いもんね(笑)。 でも、今回の五輪エンブレムの撤回の件は、あまりに面白すぎて、ちょっと何か書きたくなったぞ。 責任という空虚な言葉ばかりが飛び交い、原因・理由という言葉がまったく聞こえてこないくだらない状況が、ニポン国ならではで、実に興味深いし。 その点はまた後日記事にするとして、今日はそれとは別の指摘を考えてみる。

デザイン・広告業界の困った体質について、次のようなコメントがあった。

実際にはチームで取り組んだ仕事が少なくないのに、名前が出るのはトップクリエーターだけ。 そして、クリエーターは自分の仕事を 『作品』 と言ってはばからない。 本当は商品を売るための販促物なのに」 (by 中川淳一郎氏)

まったく別産業だけど、新薬研究開発業界も同じ匂いがしてるぞと思ったのである。 ほら、たくさんいるでしょ、「私が○○という新薬を創りました」 「私がこの××という医薬品を開発しました」 なんて威張っているおじさんたち。

有名なセンセイ・業界人に限った話ではない。 日本橋界隈の飲み屋なんかで、新人・若手を前にして 「キミたちねぇ、私を誰だと思っているのよ。 自慢したくはないけどさぁ、私はこれまで5つの新薬開発プロジェクトを成功に導いたのよ。 このすごさ、わかるのか? ・・・ おい、そこのキミぃ! だだちゃ豆食べてないで、オレの話を聴かんかい!」 なんてクダ巻いている製薬業界のオヤジさん、たくさんいるでしょ? 水を差して悪いのだが、そのプロジェクト、あんたが成功させたんじゃないと思うぞ。 正確に言うと、あんたが仮にいなくても、代わりの誰かがうまくやってくれたと思うぞ。

ニポン人は酔っ払いオヤジに甘いから (甘すぎだ)、そういった発言をみんな大目に見てくれる。 「あなたの貢献がプロジェクトの成功に本当に結びついたかを、ルービンの因果モデルの枠組みで検証してみましょうか?」 なんて冷静に問い詰める人は少なかろう。 でもね、これに関しては私もそれでいいと思う。 オジサンはオジサンで辛い人生を歩んでいるんだし。 クサいだの、ウザいだのと奥さん・子供に言われて家庭に居場所がなかったり、会社では早期退職を勧められたりするわけだし。 これ以上おぢさんをイジメるべきではない。

だが、その延長線上で、やってはいけない悪乗りもある。 例えば、前にも書いたが、新薬研究開発の 「目利き」 とかいう空想上の生き物が存在するという主張、あれはダメである。 詳細は以前の記事を読んでね → 2014-07-22 - 小野俊介 サル的日記 

忙しいヒト向けに、上の記事で書いたことを要約しておこう。

  1. 「目利き」 などという生き物はこの世に存在しない。
  2. 新薬開発の諸相・諸専門のプロフェッショナルはもちろん存在するが、その有能かつ希少な人たちを 「目利き」 などという意味不明の呼び方をするのは、とても失礼である。
  3. 『「目利き」 の活用でニポンの新薬研究開発は救われる!』 という主張って、怪しい新興宗教の教義とさして変わらない。

情けないことに、今でも相変わらずあちこちで耳にしますよね、「目利き」。 今回のエンブレムを作った佐野さんは、ネットの住民たちが検証したら、あっという間に化けの皮がはがれちゃったわけだが、「目利き」 って化けの皮すらはぎようがない怪しい肩書きである。 私も明日から名乗っちゃおうかなぁ。

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一方、お役所系の方々に多いのが、「あの○○法ってね、私が作ったんだ」 「みんなが知っている××制度を導入したのはオレなんだよ」 系の誇大妄想である。 講演会で、裏話なんぞを散りばめて、延々と自慢話をされる方々もいる。 お役所系の世界の常識を知らない人のために念のために説明すると、制度や法律なんてものは、誰か一人がポンと思いついたり、創ったりするもんじゃない。 何年 (何十年のこともある) も前から、何千人(何万人のこともある)もの人たちが思ったり、書いたり、発言したり、準備してきたことが、少しずつ形になるのよ。(注 1) まったくの新しいアイデアなんて、少なくとも規制の世界では、皆無である。 法案の作成を担当するのは、それが形になる時期に、たまたま人事異動でその部署にいただけの話である。

(注 1) もっと分かりやすく言うと、医薬品関連法制度は、アメリカ様の法制度の猿真似・パクリがほとんどである。 それらをさらに改善して、立派に見せるのは日本のお家芸。 背景の歴史・哲学・理論などお構いなしにいい恰好するものだから、出来上がった法制度は見かけ倒しの張りぼてのようなものになる。 例えば仮承認。 「何を承認するのか」 がそもそも意味不明なのに、さらに加えて 「仮」 とは ・・。 トホホレベル、高いぞ。

承認審査や安全性監視の文脈だと、「オレがあの薬を承認してやった」 だの、「私があの副作用を防いだ」 だのという自慢話になる。 これも、「たまたまその時期、規制当局でサラリーマンやってました」 とほぼ同義。 自慢するのって、みっともない。

あとね、「チームみんなの手柄を、自分一人の手柄にしちゃう」 気持ち悪さも同じである。 法律の作成なんて、誰が一番頑張ったかを冷静に評価したら、タコ部屋で過重労働に死にそうになりながら原案を作成している若手(たとえば入省2、3年目のピチピチのお兄ちゃん・お姉ちゃん) に決まってる。 で、中堅どころがきちんと整合性・論理(内的妥当性)や外部 (他省庁、業界、利害関係者など) との関係を、法制局の方々の突っ込みを受けながら、煮詰める。 実質的な政治的調整もそのレベルだ。 「法律・制度を誰が創ったか」 を冷静に突き詰めたら、創っているのはどう考えてもそうした (延べ数人−数十人の) 若手・中堅である。 役所のそうした若手・中堅って、驚くほどクリエイティブで、熱心で、志が高くて、頼もしい。

で、その上のおエライさんたちは、若者が苦労して創った法案のコピーを持たせてもらって、政治家の利害の調整をしたり、恩を売ったり・買ったり、メディアで宣伝したりする。 それはそれで重要な仕事だが、でもその人たちがふんぞり返って、法律が成立したという成果をトンビのようにかっさらって、「私が創った」 などと自慢の材料にするのは美しくないよね。

しかしそうは言っても、誰でも (老いも若きも、下っ端もおエライさんも) 自慢話はしたいものである。 じゃあどうするか。 思うに、何でも全部自分がやったような顔をしないで、自分の手柄話に次のようなコメントを付ければ良いのではなかろうか。 正直に。

  • 「その法制度の改革を担当してました。 でも、議事録をワープロで作成してただけでした(笑)」
  • 「GCPを作る現場にいて、確かにワープロは全部私が打ちました(笑)。 実質的な内容は10人ほどの先生たちが喧々諤々議論して決めました (← サル的なヒトの例)」
  • 「省令のたたき台は確かに私が作りました。 でも、法令事務官が私の案を8割方修正してしまいました(笑)」
  • 「強硬派だった2人の国会議員さんの間を行ったり来たりしただけでした(笑)」
  • 「御用メディアの○○新聞の記者に、提灯記事を書いてもらうように頼んだのが私の貢献です(笑)」
  • 「有名高校の学閥を裏で使って、うんと言わない○○省の方をなだめてもらいました(笑)」
  • 「タコ部屋で死にかけている若手にリポビタンDを差し入れして、元気にしてやりました(笑)。 たぶん私が法成立の最大の貢献者です」
  • 「法案の詳細は若手が完全に把握してるから、私は分かっているような顔をして座っているだけでした。 あんな詳細でややこしい内容、とても理解できませんよ(笑)」

・・・ とか。(注 2) (笑) で本当に笑えるかがポイントだろう。 「みんな」 の成果を独り占めにして自分だけの手柄にしてしまう威張りん坊のおっさんたちには無理だろうな。

(注 2) 誤解しないで頂きたいのだが、ここに挙げた 「貢献」 って、全部、とても重要な、意味のある貢献なのよ。 こうした役割をきっちりと果たすヒトがいないと法律・制度はできません。

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「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」小学館)。 読んでいると、自然に涙がこぼれてきてしまう。 お勧めです。

戦争をしない国 明仁天皇メッセージ

戦争をしない国 明仁天皇メッセージ