小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

スクランブル交差点の小さな奇跡

渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていたのである。 渋谷のスクランブル交差点と言えば、ゴジラウルトラマン仮面ライダーなど、時空を超えていろんな奴らが登場するので有名なポイントだが、登場するのはそういった大物だけではない。 「ねぇ、ちょっとアンケートに答えてもらえるかな?」  「君、かわいいねぇ。 近くにモデル事務所があるんだけど、面接受けていかない?」 なんて言いながら、信号待ちの若いおねいちゃんたちに声をかける、どこからどう見ても堅気には見えぬニイちゃんたちがいつもたくさん湧いている。 いわゆる悪質芸能スカウトの連中。 とてもうざい。

一昨日の夕方、渋谷スクランブル交差点。 私から少し離れたところで、おねいさんが信号待ちしていたのである。 周囲の目を引く派手な原色の服を着た、ドキッとするような美人のおねいさんであった。 私よりも背が高い。 化粧はケバいけど、なんだかいい匂いがするなぁ、ふふふ。

・・・ と幸せ気分に浸っていたら、例によってヘラヘラしながら近寄ってきたのが、調子のいい茶髪のニイチャンである。 私と彼女の間に入ってきて、「今ちょっといいかな?」 なんていいながら、おねいさんに矢継ぎ早に声をかけ始めた。

「こんばんわぁ。 お急ぎですか?」 「どこかの事務所にはもう所属してるのかなぁ?」 「芸能関係の仕事に興味ない?」 「うちの事務所、すぐそこなんだけど、ちょっとだけ寄って写真撮っていかない?」  ・・・ 

典型的な悪質芸能スカウトである。 商売とはいえペラペラとよく口が回るもんだ。 おねいちゃんは明らかに不機嫌である。 ほぼ完全に無視しているぞ。 にもかかわわらず、スカウトのニイチャンは次から次に誘いをかけている。 都会の雑踏でよく聞き取れないのだが、とてもしつこくおねいさんにカラみ続ける。 なんだかイヤな状況だなぁ、と思っていたその時である。 ブチ切れたおねいさんのドスの利いた声がスクランブル交差点に響き渡った。

「アタシはAVはやんねーよ!」

・・・ 

ブラボー! d(>_< ) !!

かっこいいぞ、おねいさん。 心の中で拍手喝采したサル的なヒト。 周囲の信号待ちのオジサンたちも温かい眼差しで、啖呵を切ったおねいちゃんを見守っている。 ほら、心の耳を澄ませば、あちらからも、こちらからも、聞こえてくるではないか、おねいちゃんを称える拍手喝采が。 

秋の気配が漂い始めた薄汚い東京の片隅に起きた、小さな奇跡であった。

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先週は、生物統計学の合宿研修に臨時講師として協力。 合宿場所は箱根が恒例なのだが、今年は、ほれ、秋の気配ならぬ噴火の気配が漂うので、埼玉の森林公園での合宿となったのである。 研修を切り盛りしている責任者の方々や、毎年この研修で顔を合わせる素晴らしい講師の先生方との会話が楽しい。

長年受講生を指導している企業の方が 「研修を何年も続けていると、指導内容のレベルが年々インフレしてしまうんですよ。 ファイルに残っている昔の指摘事項の量と、今の指摘事項の量を比べると、今の指摘事項は何倍もの量になっているし」 と苦笑い。 それって私もよく分かります。 東大でやっている研修もそんな感じである。 10年前くらいの昔の資料を見ていると、指摘や指導が当時はユルかったなぁ、と思うことがよくある。 

学生への指導も同様。 昔の学生に対する指導は、今の学生への指導に比べて、3割か4割くらいはユルかったと思う (ごめんね)。 昔は定量的研究の因果性について今ほどしつこく解析モデルで追求してなかったし、論理学的な考察もしてなかったし。 最近は、ファジー論理だの非単調論理だのが社会科学の教科書に普通に登場するので、油断も隙もないのだ。 薬学の学生にどこまで論理学を教えるか、なんてことに頭を悩ますことになろうとは、十数年前にはまったく想像もしていなかったぞ。 これはしかし、自分自身の進化でもあり、嬉しいことかもしれぬ。

一方で、誰もが歳をとる。 昔は解けた数学の問題が、今は解けなかったりする。 組立除法だの、ロピタルの定理だの、ケーリー・ハミルトンの定理だの、使ってないとほぼ完全に忘れるよね。 演繹 (例えば数学の定理の証明ね) の能力は確実に落ちている。 難しい問題を考えるときにも、きちんと演繹するのではなくて、帰納的な仮説推論 (abduction) に頼っているなぁ、自分、と思うことがしばしばある。 むろんそれはそれで個々の人間の一生における知的適応の自然な流れである。 将棋の羽生名人が 「年齢を重ねると、手を正確に読む能力は落ちるが、局面の情勢を把握する別の能力は高くなる」 といった趣旨のことをよく言っているが、それと似たようなものだ。 でも、こうした 「省エネ型正解到達メカニズム」 って、やはりなんかちょっとビミョーである。 進化か退化か分からんもんな。

演繹能力さえ維持されていれば、一生ボケずに立派な人間でいられるというわけでもないらしい。 先日の週刊新潮のコラムで、数学者の藤原先生が、ある高齢の数学の大先生の話を紹介していた。 年老いてなお、現役にも難しい難問に取り組んでいるその大先生、結婚式に呼ばれたのはよいが、誰とも一言も話をせずに、黙々と出てくる料理を食べるだけ。 難問を解こうとしているメモをこっそり覗いた若手曰く 「あのやり方では絶対に解けません」。 すなわち、数学という高度な知的活動ができる (ように見える) ことは、必ずしも一般的な意味でボケていないことを保証しないそうである。 うーむ。

というわけで、「年齢を重ねつつ、より良い指導者・教師になるのは本当に難しいよね」 などということを森林公園からの帰りの電車で、合宿研修での講師をいつも一緒に引き受ける生物統計家のS先生と話をしながら、今年も東京に戻って来たのであった。 S先生、いつものくだらぬ私の問題提起に真剣に答えて頂いてありがとうございます。

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さて、来週末は連休である。 サル的なヒトはじっくりこいつを読む予定。

虫の虫

虫の虫

養老先生の虫談義をさらに幸せな気分で読むために、ナタリー・コールの昔のアルバムをアマゾンで購入したもんね。 うーむ、我ながら完璧な連休体制。 「あんた、今週の週日はもう捨てたのか?」 と問われれば、「そのとおりだ」 と胸を張って答えよう。 皆さんも良い連休を、ね。