小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

忙しいはずなのに泣かない

六月。 皆さんお元気?

 

まずは近況報告。

うちの秘書・学生さんが大学研究室の日々の暮らしのあれこれを載せた、医薬品評価科学教室の twitter は元気に稼働中。 教員一名(サル的)が大学構内のビワ泥棒をいつ決行するかを検討中だったりする tweet も。 万一、「東大本郷キャンパスでビワ泥棒、逮捕」のネットニュースが流れたら、「その犯人ってそんなに悪い人じゃありません」 とネット署名をお願いします。 最近はレギュラーコース(RC)の情報や受講生への小ネタも載せてるので、油断ならないぞ。

 

もう一件近況報告。 実はうちの研究室(研修の事務局もやってる)、冬から春にかけて3人もの秘書 (兼事務局担当者)が辞めてしまい、控えめに言っても壊滅的な状況に陥っていたのである。 インパールの白骨街道並みの絶望を味わっていたサル的なヒト。

苦しい時にはまず笑え。 ははは。 ははは ・・ と笑っていたら、小野センセが頭おかしくなったんじゃないかと心配した昔の(辞めて何年も経つ)秘書が2名、急遽カムバックしてくれることになった。 急な頼みにも関わらず、「研修事務局が困ってるみたいだから、恨み言など四の五の言わず、助けてあげようよ」 と復帰してくれた心優しい Aさんと Oさん、ありがとね。 人助けを優先してくれるその心根が嬉しかったです。 さらに今週からもう一人、新たな秘書 Mさんが加わり、てきぱき事務をこなしてくれている。 昔からいる秘書 Oさんは、ベテラン現場監督として全体を仕切ってくれている。

これでなんとかならなかったらおかしいよな。 現在は、ちゃんと、なんとかなってます(変な日本語だ)。 ホント、私の研究室・事務局は人に支えられている。 感謝してます。 皆さん、美味しいもので必ず御礼するので待っててね。 食べたいものがあったら研究室 twitter に各自書き込むこと。

 

*****

 

で、6月である。

仕事はたまっている。 が、そんなことはもうどうでもよい。 今日はひたすら涙を流すことにする。 目ん玉の水洗いだ。 たまにはそんな日もあってよかろう。

 

理屈の世界は、一時、お休み。

 

*****

 

雨が降り続く肌寒い六月の午後。 校舎の陰に咲く紫色のあじさいに足を止め、「ああ、この頃の自分はあまりに自然にオトナであり過ぎる」 と思う。 言葉では容易に語れぬ人の想い ― 好きとか、愛おしいとか、憧れとか、寂しいとか  ― が自分の心の奥底に湧き出しているのに、そしてそれに気付いているのに、気付かぬふりをできるのがオトナ。 でもそんなオトナでいることに、いったい何の意味があるのだろう? 子供の頃みたいに、湧き上がっては消え去っていく想いに右往左往し、一喜一憂してはなぜいけないのだろう?

三四郎池のほとりで自分自身の心の中をただぼんやり眺めている夕暮れ。

・・ あの人は、今、何をしてるのかなぁ。 あの人に、会いたいなぁ ・・ 

 


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今日もオフィスで一日何も仕事ができなかったなぁと思いながら(日本の大学の教員は研究や教育をまともにできる日がほとんどない)、ふと Cavatina のメロディが頭の中で鳴り響いたのである。

 


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Cavatina と言えば、映画 Deer Hunter (1978)。 どんなエンディングだったっけ ・・ そうだ。 ' To Nick ' だ。

ベトナムで非業の死を遂げた Nick の葬式の後、映画の軸になっている故郷の友人たち がベトナムからの帰還兵とともにお店に集まる。 そこであのシーンを毎回目にするのである。

 


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キッチンで腕まくりして、一人泣きながら scrambled egg を作り始める John。

・・・ ああ、神様。 もうダメだ。 涙がどうしても止まらない。 いつもそうなのだ。 このシーンを見たとたんにどうにもならなくなってしまう。 映画の全編をあらためて見返したわけではないのに、このシーンで号泣モードのスイッチが入ってしまい、僕は人間としての機能を失ってしまうのだ。

この映画の Meryl Streep は息をのむくらい美しいと僕は思う。 皆が最後に口々に呟く ’This is to Nick’ ...  あああ、ダメだ。 もう完全にダメだ ・・・ 善き人が、良き時代が、過去のものとなってしまう喪失感に耐えられない。

 

で、一人ぼっちの夜のオフィスで、学生が誰も入ってこないように祈りながら涙をボロボロとこぼしているうちに、そういえば、他にもエンディングで涙が止まらなくなる映画がいくつかあることを思い出した。 今日のブログはその方針で行こう。 Youtube 使えばこういう記事が書ける。 幸せな時代である。

 

Robert De Niro 出演の名作はたくさんあるが、その中でもう一本と言えば、私にとってはこれである。 Once Upon A Time in America (1984)。 この映画のエンディングで、若き日のヌードルズ(主人公)が浮かべるパイプドリーム (アヘンの恍惚)の謎めいた笑み。 それを見つめる私の頬をじんわりとこぼれ落ちるのは、人生という時の流れを覆い包む涙。 年齢を重ねるごとに味わいが増す涙である。

 


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「これぞ活劇映画!」 の醍醐味あふれるシブーいエンディングで真っ先に思い浮かぶのはこれ。 The Untouchables (1987) 。 共にアルカポネと闘った警官 George との別れ。 若き日の Andy Garcia がカッコよすぎる。 路上で新聞記者に「禁酒法が廃止されるそうですが」 と尋ねられた Eliot Ness が「一杯やるさ」と答えるあのシーン。 あまりの爽快感におじさんは失禁しそうになる (最近気になりだした尿漏れ感とは無関係である)。 気持ち良すぎて涙があふれてしまうエンディングである。

 


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日本映画にも素晴らしい涙のエンディングがたくさんあるが、ストレートに心に響く例がこれ。 戦場のメリークリスマス (1983)。 坂本龍一さん、大好きでした。

映画の最後の一言、たけしの「めりーくりすます、みすたーろーれんす!」 ... ああ、ホントにダメだ。ブログ書いていても涙が止まらなくて、人間が本当に壊れてしまいそうだ。 

 


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何か大切な映画を忘れている気がする ・・・ そうだ、トトだ! トト(幼少期の主人公の愛称)の人生を忘れるところだった。 New Cinema Paradise (1988) 。

最後の最後でこのフィルムが出てくるとは・・というエンディング。 反則である。  FINE (イタリア語で「おしまい」) の文字が涙で霞んでしまう映画。

ちなみにこの映画、運命のいたずら (とトトへの深い愛)で結ばれなかった若き日の二人が、中年のおじさん・おばさんになって再会し・・という 「その後の恋」 が含まれた完全版と、それをカットした版がある。 実は完全版の方が評判が悪かったりするのだが、私は完全版で描かれる中年の二人の恋愛の姿も味わい深いと思う派である。 互いに白髪になって、顔には皺ができて、シミができて、もはや若き日の美しさは失って、それぞれに家族がいて、社会的地位もあって、・・ しかし互いの想いは消えず、ずっと心の中でくすぶり続ける。 たぶん死ぬまで。 それがヒトが生きていくということ。 「実存」。 読者の皆さんもそうでしょ? 素晴らしいじゃないですか。 涙が、止まらない ・・

 


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そして最後は、ああ ・・ 羽毛がフワフワと舞い上がるシーン。 もはや伝説である。 Forrest Gump (1994)。 「人生はチョコレートの詰め合わせ。開けてみるまで何が入ってるか分からない」。 ホントにそうだと思える年齢になりました。

「愛してるよ。 帰ってきたらまたここに迎えに来るよ」 とバス停でフォレストが息子に語る何の変哲もない台詞に涙が出てくるのだけど、その後に続くスクールバスの運転手のおばさん(ドロシーさん)との会話が映画冒頭とエンディングでつながっているんだよね。 知ってた?

 

映画冒頭での会話:

若き日のドロシーおばさん: 乗るの? 乗らないの?

若きフォレスト: ママが知らない人の車に乗っちゃダメだって言いました。

ドロシー:  このバスは学校行きよ。

フォレスト: 僕はフォレスト。フォレスト・ガンプ

ドロシー: 私はドロシー・ハリスよ。

フォレスト: うん、じゃあ僕らはもう知らない人じゃないね。

 

エンディングでの会話:

だいぶ老けたドロシーおばさん:このバスは学校行きだって分かってんのかい?

フォレストの息子: はい、分かってます。 あなたはドロシー・ハリスさんで、僕はフォレスト・ガンプ

 

フォレスト・ジュニア、進化しておる(笑)。 このやりとりの後、ニンマリ笑って 「早く乗んな!」 とアゴで促すドロシーおばさんが、僕は大好きだ。 そして足元からフワリと空に舞う一葉の羽根。 ああ、神様。 この世に映画という芸術を生み出してくれて、本当にありがとう! な、涙が、涙が ・・・

 


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*****

 

こうやって並べてみると、どの映画も昔の記事で一度や二度は紹介したものばかりであることに気づいてしまった。 スマンスマン。 しかしまぁ、毎回重い記事をサル的なヒトに書かせるのは皆さんも心が痛むだろうから、今日はこの辺で許してやってください。

 

ただ泣いただけの令和の一日。 それでよい。 何の悔いもないぞ。

 

じゃまたね。 みんな ・・・ 大人になっても、泣こうよ(笑)。 ね。

 

ニャンコに頼ってピンチをしのがない

数年前の出来事をふと思い出したのである。 なぜかは分からぬ。 この春の精神的ダメージのせいで、僕の中の大切な何かが壊れてしまったのかもしれぬ。

数年前の夜。 23時頃。 渋谷の(かつての)恋文横丁のあたりを歩いていたら、でかい外人二人が並んで立っていたのである。 「ん? 何してるんだ?」 と思って横を通ったら ・・・ 堂々と立ち小便をしておるではないか! いや、あんたたち、立ち小便はいかんぞ、立ち小便は。 日本でも一応それは法律違反だ。

それとな、もう一つ正しくないことがある。 あんたらが自らの放水器を向けている先だが、壁じゃなくて、スカスカの金網のネットだぞ。 それも歩道と90度の角度に立っているやつ。 つまり、その放水が僕ら歩行者にほぼ直接飛んでくる。 しぶきや飛沫どころの話ではないんだよ。 勢いよく放たれた小便そのものが歩行者に直撃しとるぞ! う、うわぁー・・・

あとな、さらにもう一つ正しくないことがある。 若い警官と婦警さんが外人さん二人の後ろにすでに立っているのである。 すぐに放水を停止させるべきなのに、警官・婦警さんとも英語がうまく話せぬらしく、二人の後ろで大きく手を交差させて「バツ印」 を作って突っ立っているだけ。 呆然とした表情で放尿犯を見てる。 あんたら、それじゃ外人さんに「ん? 日本の警官はなんで俺たちに X(エックス)をしてるのだ? X Japan のファンか?」 と思われるじゃないか(笑)。

 

・・・ などという記憶が走馬灯のように頭の中を駆け巡る今日この頃。 皆さんお元気? オレ、やっぱりもうダメかもしれん。 でも人生の最後に思い浮かべる記憶がこんなのだったら、それはそれで嫌だなぁ。

 

この春、いろんなことがあって精神的にボロボロになった件のその後、一応現状報告しておきますね。 心配してくれてる人がいるので。

事の顛末をざっくり言うと、サル的なヒトが過大な期待をした人にざっくりと裏切られてしまったって話。 単なるその辺のおじさん・おばさんに幻想を抱いちゃった。 これ、統計学の 「平均への回帰 regression to the mean」に近い現象だ。 その人の人となり、そして、この研究室や私への思い入れが実はほぼ無いこと(笑)を正しく見抜けなかったお人好しの自分が阿呆なわけである。 で、激しい自己嫌悪に陥り、ビョーキになったこの春 ・・・ なのであった。

で、今現在どうなってるかというと、だいぶ落ち着きましたよ。 読者の皆さん、ご安心ください。

一時期は、他人の表と裏のある振る舞い・二枚舌・嘘を一ミリも許せず、その都度(心の中で)大爆発していたのだが、今では、下心・裏心ある人の明らかな嘘であっても「ほう、そうですか。 そりゃよかったねぇ・・」 と微笑みを浮かべながら聴けるようになったぞ。 弥勒菩薩とまではいかぬが、「男はつらいよ」 の御前様並みの平静さ。

あ、そうだ。 最近の僕は、ふと気が付くとね、ジョン・レノンのイマジンを歌ってることがあるんだ。

♪ Imagine all the people  Living life in peace You ...

・・・ あ、あれ、でもなんか変だぞ。 笑えない。 どうしてうまく笑えないのだろう。 うまく泣くこともできない。 涙が出ないんだ ・・・ 

まったくの無表情のまま、虚空を見つめてイマジンを淡々と歌うジョン・レノン。 要するに、今の僕は、聖人と廃人の境界あたりにいるらしい。

 

*****

 

廃人の側に転げ落ちるのはちょっと困る ・・・ ということで、いろいろ考えて、うちの研究室の秘書のおねいさん方と元気な学生に協力してもらうことにした。

 

ここでちょっと長くなるけど、大学の秘書さんについて語らせてください。 精神衛生上、とても大切な話なので。

今一緒に楽しく働く秘書さんたちは皆、僕に隠し事をしないし、相手によって違う顔を使い分けたりしない。 下心すら隠さない(笑)。 でね、実はそれらこそが信頼できる秘書さんの必須条件なのである。

私は秘書さんの能力なんてまったく気にしない (そんなものに大した個人差があるわけがない。 「時給の差が能力の差」などと吹聴してる方々には申し訳ないが)。 さぼり癖があってもかまわない。 秘書さんが別の副業・本業を持っていても特段気にならない。 が、隠し事 (副業を隠してるとか) と嘘だけはダメだ。 だって、秘書と教員は、銭金(研究費だけでなく給与も)、学内外の人事、本音ベースで誰が敵・味方か、メディアとの付き合い、自分の健康・病気、学生の成績、時に自分の家族の内情など、教員・研究室の死活情報をほぼ無条件にシェアするのである。 配偶者と同じ、いやそれ以上に「私」を知る関係になる。 教授の機微に触れる秘密を知ってるから 「自分は教授並みにエライ」と勘違いし、横柄に振る舞う秘書も出るくらいなのだ。

もちろん秘書には守秘義務はある(でもバイトさんだと微妙)。しかし、そもそも何が守秘義務としてヤバい話なのかはとても曖昧なのだ。 うちの研究室で知り得た僕の秘密(例えば、テイラー・スウィフトのファンだとか)や研究室の秘密(例えば、教員が夜 youtubeで怖いショートムービーを見てるとか)を、私の知らぬ他の学部の研究室や会社でベラベラと話された日には、私の信頼と評判はガタ落ちである。(注 1) 考えただけでも震えが止まらないぞ(笑)。

よその教授の噂話って、口が軽い秘書なら誰もがやってることではある。 しかし、副業・本業先が分かっていたら、最悪(誰にとって最悪か分からんが(笑))、そこの連中に直接「あの秘書、こんなこと言ってませんでしたか?」 と問い質すことができる。 が、私にまったく内緒で副業・本業をやっている秘書については、その問い質しはできないし、一般的な警告すら発しようがないのである。 恐ろしい。

 

(注 1) ホントにヤバいのは、むろん、知財(特許)・論文の publication がらみの情報漏洩ですね。 昔の話だが、企業が省庁のお役人を料亭で接待するときに、「女性のアルバイト職員さんも一緒にどうぞ」 というのがよくあった。 むろん単なる善意ではない。 お役所内部の事務処理などのノウハウを持っているアルバイトさんの顔・名前、そしてコンタクト自体に価値があるから、そうしたのである。

 

「隠し事」を無くすために、私は何よりもまず、秘書さんと友達になり、信頼と友情に基づく人間関係を作ることを最優先してきた。 秘書には自分・家族のプライバシーや情けない姿(例:最近尿漏れが気になる、とか)をあえてさらけ出し、逆に秘書からも自分・家族の個人的出来事や困りごとを世間話としてじっくり聞いて、対等な「人間対人間」の信頼関係ができるように努力する。 人間同士に上司も部下もあるかい、ってこと。 仕事の能力よりも100倍は大切なのが信頼と友情。 「教員や研究室の秘密を外の誰かにベラベラ話さない」 という常識を保証する上でも信頼は必須である。

しかしそうやって努力はしても、心を完全には開かず、隠れて別の顔を持つ秘書はいる(いた)。 それもずーっと長い期間、隠し続けていた。 少しでも条件の良い雇用にたどり着くには、信頼などという不確かなものを当てにしたり、信頼に縛られて不自由な思いをするより、「隠し事」「抜け駆け」の自由を確保しておく方が有利、と考える人がいるのは当然である。 ゲーム理論囚人のジレンマの基本想定は正しい。

でも、裏の顔を持つその手の秘書さんが抜け駆けで必ず幸せになれるわけではないのが世の中の難しいところ。 「隠し事」や「嘘」って、ほとんどの場合、周囲にバレバレなのである。 特に特定の大学(例:東大)の秘書市場などという狭い世界では。

「隠し事」「裏の顔」がちらつく秘書は長期的には大切な仕事を任されなくなるし、周囲で小さなトラブルが頻発するようになり、居心地の悪い状態になる。 で、また次の「隣の青い芝生(別の研究室)」を探し、移る(転職する)ことになる。 しかし一度生まれた悪評は消えることなく、次の職場にも確実に伝わり ・・・(以下、繰り返し)。

情報の経済学の教科書に書かれてる世界そのものである。最終的に「信頼」派と「裏切り」派のどちらが生き残るのかは進化ゲーム理論に任せよう。

 

あとね、それとは別の問題として、その場にいない同僚を延々と dis り続ける類の秘書とは縁を切りたい。 要は「自分の方が能力が高い」 という根拠不明の自慢がしたいだけ。 そんな輩が身内にいると組織が機能しなくなる(実際、崩壊した)。

 

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話を戻しますね。

幸いなことに、今、一緒に働いている秘書さんたちは、皆、信頼できる。 彼女たちにはややこしい隠し事がまったくないから。 こっそりホットヨガに通ってるとか、英会話教室に通ってるとかは知らんけど(笑)。 今、自分は、彼女たちのおかげで、とても安心して仕事ができています。 ありがとね。

 

で、研究室の皆でちょっと元気になることやってみるか、という話になった。 ほれ、今はインターネッツの時代なんだから、それを使って気分転換をしてやろう。

というわけで、私の研究室、東京大学大学院薬学系研究科 医薬品評価科学教室の 公式twitter アカウントをついに始めることにしたのである。 なんと言っても「大学の研究室公式」twitter である。 これまで私がつまらん個人的な愚痴などを呟いてきた非公式アカウントとは重みが違うのだ。

 

 

・・・ ほれ、どないだ? つぶらな瞳がもうたまらんだろ? これだけでサル的なヒトはご飯三杯はいける。

 

次のつぶやきからも研究室公式 twitter ならではの重みと深みが感じられよう。

 

 

・・ ん? 「これが医薬品評価科学とどう関係するんだ?」 だって? あんたもバカだなぁ。 そんなことも分かんないのか。 だからニポンの新薬開発は世界に劣後しちゃうんだよ。 ちょっと廊下に立って頭を冷やしたらどうだね。

 

この twitter アカウントで私は、大学の研究室の HP や tweet にありがちな、読者の鼻につく研究成果自慢や教育指導体制自慢をする気はまったくありません。 ああいうの、私、嫌いなんです。 なんかエラソーに見えて、美的に、ダメ(笑)。 結局は主宰教授のためだけの宣伝・自慢にしかなってない気がするし。 あ、他の研究室のやり方に喧嘩を売る気はまったくありませんので怒らないでね。 教室 HP や SNS なんて、それぞれの研究室がそれぞれのポリシーで好き勝手にやればいいだけの話。

 

なので、私は、信頼できる今の秘書のおねいさんたち、ピチピチの内部の学生たち、そしてだいぶ年季を積んだ社会人学生(製薬企業やお役所で働くベテランたち)に 「研究とか立場とかお構いなしに、好きなことや幸せになりそうなことを楽しく呟いてね」 の方針でいくつもり。 ニュージャージー、ボストン、ミネソタにいる3人からも呟いてもらおうっと。

今ここにある、この奇跡のような時間を、大した下心もなく、社会一般ほどのややこしい利害もなく、ゆるーく共有している仲間がいるのが大学なんだもの。 大学の研究室ってそういうものでしょ?

ということなので、ブログ読者の皆さんもぜひ「公式」 twitter アカウント、覗いてみてね。 コメントも入れてください。 お待ちしてます。

 

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最近読んだ本の紹介。 ドタバタであまり本を読めてない。 すみません。

 

ブルーバックスにしてはやけに分厚いが、面白くて一気読みできますよ。

遠い未来に知的生物と思考(そのもの)が存在しえぬことを冷静に語る宇宙物理学者に感銘を受けたのである。 目の前にいる対象(患者)をどう扱うかの存在論にすら目を向けずに 「有効性」 概念を語ってしまうド近眼の医薬専門家とはあまりに好対照で大笑い。

 

もう一冊はお気楽なやつ。 お気楽で素晴らしいやつ。 もう読まれた方、たくさんいますよね。

待ってました、って感じ。 トンデモ精神科医の伊良部センセーが主人公なのだが、自分がビョーキになっているせいか、伊良部センセーのどこが素晴らしいかがよく分かるのである。 伊良部先生には、表と裏、二枚舌がないのである。 この春、それらに散々苦しめられた自分は、ますます伊良部センセーのファンになってしまいましたよ。 あの網タイツ看護師、マユミちゃんもパワーアップしておる(笑)。

 

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実は、サル的なヒト、今日ここには書けないような(さすがにブログに書くとまずいよな、的な) しんどい業務上のトラブルも抱えているのだが、ま、なんとかなるだろう。

そういえば、映画 「ハッピーフライト」 の中で相当にシリアスなトラブルが起きたとき、機長の時任三郎が、頼りない副機長の田辺誠一に 「困ったときにはまず笑え!」 って言ってたな。 まずは笑おうか ・・・ あ。 笑えない。 今のオレ、表情が凍り付いた廃人のジョン・レノンのヒトだった ・・・ なぜか無表情のまま、死んだ目でイマジンは歌えるのに (笑)

 

♪ Imagine all the people  Living life in peace You ...

 

じゃまたね。

 

数学ができない新入生へのメッセージ、再び

今回は大サービスの連休特大号 (笑)。 ちょっと長いぞ。 連休の暇つぶしになってうれしいだろ? ・・・ ん? 迷惑そうに目を伏せる読者の方が多いのはなぜだろう?

連休だと言ってみたところで、僕の前に並んでいる、僕しかやれない仕事(学生の投稿論文の添削が三つ、博士論文の添削が一つ、研究費の報告書が一つ)は何一つ減りはしない今日この頃。 皆さんの仕事は連休で減るのか? ふーん、それっていいなぁ(棒

・・・ などと、こともあろうに読者に向かって悪態をつくサル的なヒト。 読者数を競ってるわけじゃないのだから、別にそれで良いのだ。 というか、十年もこんなブログを読んでくれている変わり者の皆さんがこの程度の悪態で動じるわけがない、ということを知ってる確信犯(笑)。

 

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業務連絡を二つ。 

業務連絡その1:

今年も大学院入試の季節が来ましたよ。 頑張って博士号(PhD)を取りたい人、東大の大学院の薬学系研究科の入試説明会は5月6日(土) 13:00- です。 が、そこでは3分程度の説明しかできないので、受験を検討されている方(社会人)は随時私の研究室(医薬品評価科学教室 prstokyo あっと mol.f.u-tokyo.ac.jp)にご連絡ください。 研究室の概要などをじっくり説明いたします。

受験希望者への私からのアドバイスは、次の記事を読んでくださいね。

 

boyaboy.hatenablog.com

boyaboy.hatenablog.com

 

業務連絡その2:

5月15日(月)夕方から医薬品評価科学レギュラーコース(RC)が始まりますよ。 受講生の皆さん、今年も楽しく勉強しましょう。

ベテランの講師の先生方は、結構厳しいこと・皆さんにとって耳が痛いことをズバズバと言ってくれます。 私も、講師の先生方との長い付き合いと信頼関係の下、会社やPMDAに一切忖度なしに、伝えるべきことははっきり言います。 それがこのRCという研修の特長です。 単に知識を伝えるだけではない講義がたくさんあるよ。 お楽しみに。 

昨年度と同様に今年も現地(東大の講義室)とオンラインの併用で行います。 実地で講義を受けてもらえる人の数が増えると嬉しいなぁと思っており、事務局ががんばって現地参加者用のパンとかジュースとかお菓子とかを充実させる予定。 人と人のつながり・友情を育むためには、やはり顔と顔を見ながらの会話が欠かせない、ということは皆さんも痛感されていると思うので、できる限りのお手伝いをします。

ここ2年間開催できていない大学内のイタ飯屋さんでの夏の懇親会も、むろんコロナの状況を見ながらではありますが、できれば開催したいっす。

というわけで、5月15日に今年度のRCの受講生の皆さんとお会いできるのを心から楽しみにしてますよ。 

 

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先日、大学の新入生向けに数学のブログ記事を書いたのだが、タイミングがちょっと早すぎた。 あの時期にはまだ数学の講義が始まっておらんかった。 つまり誰もまだ数学の講義で落ちこぼれてなかったのであった。 おじさん、迂闊(うかつ)であったよ。 すまん、すまん。

数学の講義が本格的に始まって数週間経った今 ・・・ ほれ、あそこにも、あら、ここにも、頭を抱えて泣きそうな顔をしてる学生がゴロゴロいるぞ(笑)。 そういう新入生たちに届けなければいけない記事だったのだ。 なので、以下にコピペして再掲します(手抜きというなかれ)。

 

記事再掲の前に、一言。 あの記事を書いたときには知らなかったのだけど、私とまったく同じ苦悩を味わっている学生の、こんな面白いマンガがあったのね。 結構大人気みたい。 東大生協駒場書籍部にも盛大に並べられてて大笑い。 学生の絶望に寄り添いつつも、おいしく利益を上げる東大生協って、資本主義的に good job である。

「数字であそぼ。」絹田村子)。 今、9巻まで出てます。

 

このマンガ、無茶苦茶おもしろいっす。

主人公の横辺建己君は田舎では神童と言われた秀才。 だが入学初日の最初の数学の講義がまったく理解できなかったことにショックを受け、いきなり引きこもりに。 で、次のシーンがなんと2年後(笑)。下宿先の大家さんのわんこ(だんごちゃん。雑種)に「散歩に連れてけ!」と夕方4時にツンツンされて起こされるのである。 変わり果てた姿になった元神童はその後どうなるのか・・ というお話。

私はもうその時点で大爆笑してしまい、全巻を大人買いしてしまった。 連休中少しずつ楽しんでいるのである。

苦悩する主人公の周囲にいる友人たちがサイコー。 主人公は、数学の証明を「覚える」ことはできるけど「分からない」。 一方、友人たちはみんな数学が 「分かる」子たち。 だけど皆それぞれにどこか人間として大切なものがビミョーに壊れていて、その壊れ方が超楽しいのである。 大学3年生になっても高校のスクール水着着てホテルのプールで泳いでる夏目まふゆちゃん(天才)とか。 ちなみにまふゆちゃんは腹が減るとゴミ箱の中の食べ物も平気で食べる。 

ちょいちょい登場する数学の概念がまた楽しい (私には)。 たとえば有名な選択公理の話は、バナッハ・タルスキーの逆理(一つの球を無限に細かくして再構成すると、なぜか二つの同じ球ができてしまう、というやつ)とともに第4巻に登場しますよ。 お楽しみに。

数学の話題にまったく興味がないそこの貴方でも大丈夫。 数学トピックは読み飛ばしてしまっても全く問題なし。 だってこのマンガって要は「大学生の青春モノ」だから。 大昔のマンガ 「キャンパスクロッキー」 に似た雰囲気である (ほれ、小陳恋次郎とかが出てたやつ(笑))。

舞台が京都大学なので、京都の蘊蓄あれこれも楽しい。 京都のおばあさんのいけず(他人の悪口)とか京大生のアルバイト事情なども。 幽霊も盛大に登場。

というわけで、「この春、信頼していたスタッフに逃げられた寂しさで、まったく元気がでないなぁ」とか 「近頃なんか笑いが足りんなぁ」 とか、暗い声で呟いておられる方 (それって自分・・) は、今すぐ本屋に go !

すべての皆さんに力強くお勧め です。10億点。

 

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以下は、前々回の記事の再掲である。数学の講義が分からずに落ちこぼれかけている新入生へのメッセージ。 「数字であそぼ。」の主人公、横辺君はなぜか結局数学 (数学科から大学院へ) の道を着々と歩むのだけど、そうでない道からも数学を愛することができるのだよ、ということを伝えたい薬学部のセンセーからのメッセージである。

頑張れ、新入生!

 

(以下、記事の再掲)

 

同時代を生きる友人たちにはこれほどにまで寛容なサル的なヒトなのだが、40年前の恨みを未だに忘れていないのである。 なんと執念深いことだろう。 サルにしておくのはもったいないと思うのだ。

 

40年前の春。

新入生の私は東大駒場キャンパスで教養科目の講義を受けていた。 英語、ドイツ語、数学、物理、化学 などなど。 数学は二コマあって、一つが「解析」、もう一つが「線型代数」。 後者の「線型代数」、つまり行列・ベクトルはまぁなんとかなった。 問題は「解析」である。

前にも書いたのだけど(これね → 算術の少年しのび泣けり夏 - 小野俊介 サル的日記 )そのN先生の「解析」の講義、一ミリも講義内容が分からなかったのである。 「分からない」 にもいろいろ程度があると思うのだが、N先生の「解析」の講義の分からなさは最上級、Aプラスの分からなさ。

まず何より、N先生の声が小さくて、話している言葉が聞き取れない。 ブツブツ何か呟きながら黒板に数式をひたすら書いていくのだけど、その数式が何を意味するのかがまったく分からない。 それ以前に、N先生が教えていることが数学なのかどうかが分からないのである。 教科書を買おうと思っても、いったいどの教科書を買えばいいのかすら分からない、という始末。 高木貞治先生のあの「解析概論」(当時は分厚く堅い表紙だった)が教科書として一応は指定されていたのだけど、それを読んでも、先生が板書したことが「解析概論」のどこと対応してるのかがさっぱり分からない。 というか、クラスメートは誰一人として「解析概論」なんて読んでない (カバンに入れて学校に持って行ったら失笑された)。

それなりに夢・大志を抱いて大学に入ったはずなのに、いきなりの挫折である。 挫折というよりも絶望の方が近い。 ホントに死にたくなったのである。 定期試験では当然に「不可」、つまり追試験。 一応単位はもらえたが、点数はボロボロ(50点)である。

ちなみにほとんどのクラスメートも僕といい勝負の理解度だった。 追試を数十名で受けた。 ごく一部の数学ができる学生(物理学科などに行く連中)に「どうすりゃいいんだ?」と尋ねたら、「あんなもの、理解する必要ないよ。 定期試験の問題さえ解ければいいのよ」 とお気楽に語ってくれたっけ。

「俺は、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだぁ」と虚しく叫んだ40年前の自分。

 

時は流れ、2023年。 東大の教員をやっているサル的なヒトは、学生の方をまったく振り向かず、聴き取れぬ日本語でN先生がボソボソと講義していた内容が数学のどの分野だったのかを、40年後の今になってようやく理解した。

 

位相論と集合論

 

・・・ 気付くのが遅い。 遅いよ。 遅すぎるよ、自分 ・・・

 

一応解説しておくと、位相論と集合論は現代数学の基盤をなす領域です。 良いテキストもたくさん増えました。 私の研究領域との接点としては、理系・文系両方の論理学を支える数学基礎論の背景でもある。 ちなみに数学基礎論ってのは「やさしい数学」 という意味ではない。 数学という学問を学問として成り立たせるために必要な概念(道具立て)をきちんと一から組み立てる、という世界である。 数学の哲学という言い方もある。 集合論、位相論をその前提として、一階述語論理、不完全性定理連続体仮説の独立性証明・・と進むやつね。 

むろん当時も今も、学部の一年生がそれら全部を教わるわけではない。 N先生が実際に講義していたのも位相論のごく初歩の概念のみであった。 開集合だの距離空間だの内点だの点列コンパクトだのコーシー列だの。 大したことないといえば大したことはない (いや、僕のような素人からすると相当に大したことあるけど)。

しかし、高校出たばかりの新入生は、数学という学問がいったいどのような構造になっているのかをまったく知らないのである。 数学の世界地図を持っていないのだ。 地図もコンパスもなしにタクラマカン砂漠に放り出されているような状況。 そんな子供たちを前に、「数学のどの領域を教えようとしているのか」 の一言の説明もなく、ただ黙々と公理系の証明を進めていく、なんて講義スタイルはまったくダメダメだよな、それ ・・・ と現在薬学部で教えている小野センセは思うのだ。 

ホント、恐ろしい講義であった。 米国の大学だったら間違いなく「教員変えろ」と学生が大学に要求しただろうし、さらに「授業料、返せ」という訴訟が起きてたかもしれぬ。

教育体制や銭金の問題だけではなくて、もっと重大な問題もある。 それはほとんどの学生たちに、数学に対するトラウマのような負の感情、劣等感をすさまじいまでに植え付けてしまったこと。 教育の観点からはこっちの方がむしろ大問題なのだと思う。 

 

で、40年後の今。

サル的なヒトは、今日も深夜のオフィスで一人、必死で集合論と位相論の勉強をしてるのである。 選択公理の意味も、距離空間の意味も、今なら分かるぞ。 同値関係とか整列集合の意味も分かる。 ハウスドルフとコンパクト性の関係 ・・はちょっと待ってくれ。 あと数週間でたどり着くから。

それもこれも、 当時のN先生への復讐を果たすためである。 なんせこっちは、「あのおっさん、絶対に許さんからな!」 と40年間、お役所で働いていた時にも、ハーバードで勉強してたときにも、東大で研究をし始めてからも、とにかくずーっとN先生のことを忘れず、ずーっと復讐を誓い続けてきたのである。 勉強なんぞ全然苦にならない。 楽しくて仕方がないに決まってるだろ。

 

・・・ N先生。 ありがとうございます。

人類の知、いや、世界・宇宙の姿をもっと知りたいという思いを58歳の今も抱き続けていられる理由の一つは、たぶんあの時の講義へのこだわりのおかげの気がしてるのです。 皮肉でもなんでもなく、先生にお礼がしたいとそう思ってるのですよ。 不思議なことに。 

 

学問が好きになるかどうか、学問とどう接するかは、こんなふうに、いろんな偶然が関係してるのですよ。 あとね、この問題は、学校に所属している間だけでなく、人生全体の時間軸で考えないといけないのかもしれません。 受験勉強とはまったく違う感覚で、ね。

不思議なことがいろいろ起きるのが、人生なのだ。

 

 

*****

 

ふー、これで今日の記事はおしまい。 最後までお付き合いいただき、ありがとね。 今回の記事は普段の倍くらいの長さでした。 作者も書いててしんどかった。

では皆さん、心安らかに緑の季節を過ごしてね。 

 

ちなみに僕は、長年信頼していたスタッフに裏切られた悲嘆の中、自分に「自暴自棄の呪い」をかけてしまったのである。 ここ2か月ほど、呪いがかかったままモンスターとダンジョンで絶望的な戦いを続けてるドラクエの主人公 (level 7くらい)のような状態。 早く呪いを解かないとヒットポイントと体重がやたらと減って危険なのだが、ドラクエには呪いを消す魔法があんまり無いんだよなぁ。 キアリーは毒消しだし。 教会(あるいは心療内科)に行って、神父さん(あるいはお医者さん)に金払って「呪いをとく」 をしないといかんのだろうなぁ。 でも教会に行く途中で強いモンスターに会っちゃうかもなぁ。 ゴーレムとか。

・・・ なんとも分かりにくすぎる現状の表現で申し訳ありません(笑)。

 

しかし、まずは少しでも自力で呪いを解く努力をしようと、この季節の定番、Bee Gees の 「若葉の頃」 を聴いてみたりする  ・・ あ、いかん。 いかんぞ。 これは辛い悲しい思い出をしみじみ思い出させる方向の曲だった。

・・ (´・ω・`) ショボーン

 

じゃまたね。 完全にヒットポイントが回復するまで、こりゃ先は長いわ。

 


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「こちらあみ子」の坊主頭に涙しない

暖かくなってきました。 本格的な講義が始まって大学構内も賑やかになってきましたよ。 対面での講義に戻ったので、学食や大学周りのメシ屋にも混雑が戻り、痛し痒し。 ランチ時の長い行列に、つい 「コロナでお店がガラガラの頃の方が良かったかも・・」 などとぼやきたくなる気持ちは、大手町や日本橋界隈でも同じではなかろうかと思う。

で、皆さんお元気ですか。

私の方は、多少は元気になってきたのですが、まだビミョーなところ。 信頼しきっていた仕事上のパートナーに裏切られた痛手が大きく、数週間「さて、これから研究室の仕事や研修事業をどうやって再構築したらいいものか?」 と途方にくれていたので、どうしてみても後遺症は残るのである。 

「このところのブログ、元気ないぞ。 どうしたの?」 と、昔からの友人や大学内の知人が何人もわざわざ話を聴きに来てくれた。 お気遣いどうもです。 友人といろいろ話すことで、気分的にだいぶ楽になりましたよ。 

僕を慰めに来てくれたはずなのに、話を聴いて大笑いする人、多数 ・・・ おまいら、いい加減にしろ。 心優しいおねいさん方からは 「小野センセってバカだよね。 前から思ってたけど。 人を見る目が無さ過ぎ」 などという正確無比な指摘を面と向かって受けた。 

しかしまぁ、バカにされようと嘲笑われようと別に構わないのだ。 私の情けない反省談(一時の疑心暗鬼に惑わされて、本当に大切なヒト・コトを見間違えぬようにすること)は皆に語り伝えていくしかあるまい。 ため息をつきながら。

ふぅー。

 

*****

 

十数年ほど前に serendipity という言葉がやたら流行ったのを覚えてますか。 今では使うのが恥ずかしいくらい手垢がついてしまって、相当に薄っぺらくなった言葉だが(とはいえ、大学研究室のホームページなどには相変わらず乱用されててげんなりするけど)、「思わぬものをたまたま・偶然見つけてしまう」 くらいの意味。 。 

最近サル的なヒトは、いろんな人とうまく心が通い合わない経験を何度もして、なんだか半病人と化しているわけなのだが、なぜか偶然に、自分の今の苦悩そのものに光を当ててくれたかのような映画に出会ったのである。 先週 のTBSラジオ宇多丸がこの映画の解説をしてるのをふっと耳にしたその瞬間に、 「あぁ、これだ。 私が住んでいる世界はこれなのだ ・・」 と雷に打たれてしまった。

 

「こちらあみ子」(2022年7月公開。今は amazon prime などで見られます(有料)。)

 


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予告編を見て、それから今村夏子さんの原作小説を読み、「な、なんてこった・・・。 こんなに素晴らしい映画を見逃していたなんて ・・」 とまずは呆然としたサル的なヒト。 とともに、これは苦悩する私に神様が与えてくれた宝物なのだとこれまた一瞬で悟ったのである。 神様、good job ! (笑)

 

こんなお話である。

あみ子は、ちょっと(だいぶ)足りない女の子。(注 1) お兄ちゃんと二人で、一見やさしそうな夫婦に養子にもらわれて、育てられている。 あみ子は「足りない」子なので、皆からバカにされ、壮絶にいじめられるが、本人はまったく意に介さない。

しかしそんなある日、あみ子がやらかしたとんでもない出来事があみ子の周辺世界を大きく歪め始めて ・・・

(注 1) 私は発達障害とか知的障害とかいうそれらしい医学用語を映画評や文学評に無造作に(素人が勝手に)使うのが嫌いなので、こういう言葉を使わせてもらいます。 気に障る人がいたらごめんね。

 

以下、ネタバレしてます。映画・原作に先に触れたい方はそうしてください。)

 

映画ではこんな人たちが登場する。

  • 自分の世界だけに住み、純粋で一途で、本人だけはいつも幸せな 「あみ子」。「あみ子」 には、他人には他人の世界があることが分からない。
  • 「あみ子」と正面から向き合おうとして精神を病んでしまった「あみ子」の義母。
  • 「あみ子」に一見優しく接するが、本当はまったく何も向き合ってはいない「あみ子」の義父。
  • 足りない妹がうざくて面倒くさくて仕方ないが、不良になって義父母と縁を切った後も「あみ子」を救いに来る兄。
  • 「あみ子」から一方的に好かれて迷惑さを隠さぬ「あみ子」の同級生、のり君。最後は「あみ子」を殴り倒し、「あみ子」の歯を三本折って逃走。
  • ずっと「あみ子」のそばにいて、「あみ子」を特別扱いせず、「あみ子」に本気で怒りをぶつけ続けてきた坊主頭の同級生。 

 

ふぅー。

書いていてなんかしんどいぞ。 全く異次元のお話の世界(子供たちの夢世界)と現実世界(おっさんおばさんの住む世界)が重なってしまう。 なぜだろう?

「喧嘩したわけではないのに、うまく心が通い合わぬ」現象を前にして途方に暮れた私。 考えてみたらこの春の短い期間に、私はほとんど無意味な独り相撲をしながら、これらすべての役回りを経験したような気がする。 心がヘトヘトにくたびれ果てて、体重が 5キロ減るのも当然かもしれぬ。

「あみ子」はこの社会ではいろいろな場面・場所に登場する。 私は「あみ子」のためと言いながら全く「あみ子」の心に寄り添うこともなかった義父でもあったし、最後は「あみ子」を殴り倒したのり君でもあった。 「あみ子」 には嘘で他人をだまそうとする悪意がないことは分かっているのに、辻褄のあわぬ言動を責め立てたりもしたっけ。 ひどいよなぁ、自分。 やさしさのかけらも無い。

あーあ。 自己嫌悪。

 

しかし、自分の話はもうこのくらいでいいや。 自分語りは今日のこの記事をもって終わりにします。 ここ数回、長々とした記事にお付き合いいただきありがとね。

次回記事からは元のモードに戻しますよ ・・・ たぶん。

 

*****

 

結局、義父母に体よく捨てられてしまい(本人は例によってそれに気づかない)、おばあちゃんの家に一人預けられることになった「あみ子」。 が、この映画の救いは最後にやってくる。 救世主はなんと、最後まで名前すら一度も出てこない「坊主頭」。 あみ子から顔も名前も覚えてもらってない男の子である。

転校する「あみ子」と「坊主頭」が放課後の教室で交わす会話。 この会話のためにこの映画があったといっても過言ではないくらい美しいシーンなのである。 原作を引用しようかと思ったが、一部を抜き取ると作者の今村夏子さんの文章の素晴らしさが傷ついてしまうので止めておきます。 ぜひ原作を読んでね。 おすすめです。

 

 

*****

 

「あみ子」に感動する一方で、こんなややこしい本にも感動を覚えたりしてる。

 

ご存知、「ABC予想」を証明した望月新一先生の IUT理論の解説書である。 新しい数学、次世代の数学なので、プロである数学者たちも目を白黒している様子がとても楽しく書かれていて感動するとともに大笑い(す、すみません、加藤先生)。 本当の学問って素敵である。

あ、そう言えば、「あみ子」と望月先生ってむろん一ミリも接点はないのだけど、「言ったことを理解してくれる人がほとんどいない」という点で似ているのは不思議だなぁ ・・などとぼんやり思ったりしたのである。

 

*****

 

映画のエンディング、「あみ子」は大きな声で、はっきりと

「大丈夫!」

とこっちを向いて答えてたっけ。

 

そう、きっと大丈夫。 僕は君をずっと見守ってますよ。

愛おしいこの世界に住むすべての「あみ子」さん。

 


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40年前の数学の先生に復讐しない

またもやルーシーにだまされた哀れなチャーリー・ブラウンに向かって、ルーシーが放った一言:

 

Lucy: 

Isn't it better this way, Charlie Brown? Isn't it better to trust people?

ルーシー:

ねぇ、チャーリーブラウン、人を疑うよりも、人を信じてこんな風にひどい目に遭う方がまだマシじゃない?

 

・・・ 二か月間考えて、僕は結論にたどり着いた。

結論: ルーシーのいうとおり。

人を信じることで得られる幸せは、人を疑って得られる幸せよりも5億倍は大きい。 結果としてひどい目に遭おうが遭うまいが、そんなことは結論にまったく影響しない。

もっと正確に言うと、「人を疑ってるとそもそも一ミリも幸せにはなれない」。

58歳にして初めて気づいたよ。 遅すぎだろ、自分。 でも気付けただけマシか。

 

*****

 

この春、いろんなことがありました。 簡単に言うと、長年信頼していた同僚といさかいがあって、付き合いが途絶えてしまったのである。 何か大事件が起きたわけじゃないのに、話がまったく通じなくなってしまったのである。 こっちが驚いたのである。

その同僚、私に言っていることと、裏で(私の知らないところで)実際にやってることとがまるで違ってる。 こっちは腹の中を丸出しにしてお願いをしてるのに、あちらは腹の中に何かを隠したまま、こちらのお願いに Yes とも No とも言ってくれないのだから、話が通じなくて当然である。

けどね、今回の仲違いは別に大したことじゃないと思っている冷静な自分もいるのだ。 心の通じ合った同士がカッカしながら喧嘩することがあってもいいのである。 普段だったらまったく気にならないことが、ボタンの掛け違いのせいで、気になってしまっただけかもしれぬ。

いい年したおっさん・おばさんが、これまで見せたことのない顔や腹の中に隠された思惑の一つや二つを持っているのも当然だよね。 悪いことでもなんでもない。 見せたことのない「裏の顔」ってある意味人生の勲章のようなもの。 あるいは、小皺や白髪のようなものである。 妙齢の方々の目尻の小皺や白髪ってとても魅力的でしょ? 必死で隠そうとするのはむしろ虚しいこと。

人ってみんな、あっという間にヨボヨボの年寄になってしまうのです。 だから、僕はいつもどおり宣言しておくけど、少なくとも僕は自分からは誰との縁も切るつもりはありません。 そんなもったいないこと、できるわけがない。 僕らは一期一会の意味を十分に理解できる年齢になっているんだし。

だから今回みたいな仲違いをしたとしても、次に会うときは「ハハハ。 最近会わなかったねぇ」「あの口喧嘩以来だね」 「で、元気にしてるの? 心配してたんだよ」 と笑い飛ばせば良いのだ。 笑い飛ばして、また仲良くなれる。

近所の担々麺屋の煮卵無料サービス券を財布から取り出してながめながら、仲違いした人と、このサービス券をシェアして担々麺を一緒に食べる日がきっとすぐに来るさ、と信じているサル的なヒト。 僕はスヌーピーと同じくらい呑気な楽観主義者でもある。

仲直りの時間はたっぷりある。 なんせ、担々麺屋さんの煮卵無料サービス券の有効期限は「2050年12月31日」なんだもの。

 

 

また一緒に担々麺食って、大学や仕事や家族や友人の話をしましょう。 瀬佐味亭で待ってるよ。

 


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*****

 

で、いつものように唐突に話題は変わるのである。

 

同時代を生きる友人たちにはこれほどにまで寛容なサル的なヒトなのだが、40年前の恨みを未だに忘れていないのである。 なんと執念深いことだろう。 サルにしておくのはもったいないと思うのだ。

40年前の春。

新入生の私は東大駒場キャンパスで教養科目の講義を受けていた。 英語、ドイツ語、数学、物理、化学 などなど。 数学は二コマあって、一つが「解析」、もう一つが「線型代数」。 後者の「線型代数」、つまり行列・ベクトルはまぁなんとかなった。 問題は「解析」である。

前にも書いたのだけど(これね → 算術の少年しのび泣けり夏 - 小野俊介 サル的日記)そのN先生の「解析」の講義、一ミリも講義内容が分からなかったのである。 「分からない」 にもいろいろ程度があると思うのだが、N先生の「解析」の講義の分からなさは最上級、Aプラスの分からなさ。

まず何より、N先生の声が小さくて、話している言葉が聞き取れない。 ブツブツ何か呟きながら黒板に数式をひたすら書いていくのだけど、その数式が何を意味するのかがまったく分からない。 それ以前に、N先生が教えていることが数学なのかどうかが分からないのである。 教科書を買おうと思っても、いったいどの教科書を買えばいいのかすら分からない、という始末。 高木貞治先生のあの「解析概論」(当時は分厚く堅い表紙だった)が教科書として一応は指定されていたのだけど、それを読んでも、先生が板書したことが「解析概論」のどこと対応してるのかがさっぱり分からない。 というか、クラスメートは誰一人として「解析概論」なんて読んでない (カバンに入れて学校に持って行ったら失笑された)。

それなりに夢・大志を抱いて大学に入ったはずなのに、いきなりの挫折である。 挫折というよりも絶望の方が近い。 ホントに死にたくなったのである。 定期試験では当然に「不可」、つまり追試験。 一応単位はもらえたが、点数はボロボロ(50点)である。

ちなみにほとんどのクラスメートも僕といい勝負の理解度だった。 追試を数十名で受けた。 ごく一部の数学ができる学生(物理学科などに行く連中)に「どうすりゃいいんだ?」と尋ねたら、「あんなもの、理解する必要ないよ。 定期試験の問題さえ解ければいいのよ」 とお気楽に語ってくれたっけ。

「俺は、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだぁ」と虚しく叫んだ40年前の自分。

 

時は流れ、2023年。 東大の教員をやっているサル的なヒトは、学生の方をまったく振り向かず、聴き取れぬ日本語でN先生がボソボソと講義していた内容が数学のどの分野だったのかを、40年後の今になってようやく理解した。

位相論と集合論

・・・ 気付くのが遅い。 遅いよ。 遅すぎるよ、自分 ・・・

 

一応解説しておくと、位相論と集合論は現代数学の基盤をなす領域で、(理系・文系両方の)論理学を支える数学基礎論の背景って感じ。 ちなみに数学基礎論ってのは「やさしい数学」 という意味ではない。 数学という学問を学問として成り立たせるために必要な概念(道具立て)をきちんと一から組み立てる、という世界である。 数学の哲学という言い方もある。 集合論、位相論をその前提として、一階述語論理、不完全性定理連続体仮説の独立性証明・・と進むやつね。 

むろん当時も今も、学部の一年生がそれら全部を教わるわけではない。 N先生が実際に講義していたのも位相論のごく初歩の概念のみであった。 開集合だの距離空間だの内点だの点列コンパクトだのコーシー列だの。 大したことないといえば大したことはない (いや、僕のような素人からすると相当に大したことあるけど)。

しかし、高校出たばかりの新入生は、数学という学問がいったいどのような構造になっているのかをまったく知らないのである。 数学の世界地図を持っていないのだ。 地図もコンパスもなしにタクラマカン砂漠に放り出されているような状況。 そんな子供たちを前に、「数学のどの領域を教えようとしているのか」 の一言の説明もなく、ただ黙々と公理系の証明を進めていく、なんて講義スタイルはまったくダメダメだよな、それ ・・・ と現在薬学部で教えている小野センセは思うのだ。 

ホント、恐ろしい講義であった。 米国の大学だったら間違いなく「教員変えろ」と学生が大学に要求しただろうし、さらに「授業料、返せ」という訴訟が起きてたかもしれぬ。

教育体制や銭金の問題だけではなくて、もっと重大な問題もある。 それはほとんどの学生たちに、数学に対するトラウマのような負の感情、劣等感をすさまじいまでに植え付けてしまったこと。 教育の観点からはこっちの方がむしろ大問題なのだと思う。 

 

で、40年後の今。

サル的なヒトは、今日も深夜のオフィスで一人、必死で集合論と位相論の勉強をしてるのである。 選択公理の意味も、距離空間の意味も、今なら分かるぞ。 同値関係とか整列集合の意味も分かる。 ハウスドルフ性とコンパクト性の関係 ・・はちょっと待ってくれ。 あと数週間でたどり着くから。

それもこれも、 当時のN先生への復讐を果たすためである。 なんせこっちは、「あのおっさん、絶対に許さんからな!」 と40年間、お役所で働いていた時にも、ハーバードで勉強してたときにも、東大で研究をし始めてからも、とにかくずーっとN先生のことを忘れず、ずーっと復讐を誓い続けてきたのである。 勉強なんぞ全然苦にならない。 楽しくて仕方がないに決まってるだろ。

 

・・・ N先生。 ありがとうございます。

人類の知、いや、世界・宇宙の姿をもっと知りたいという思いを58歳の今も抱き続けていられる理由の一つは、たぶんあの時の講義へのこだわりのおかげの気がしてるのです。 皮肉でもなんでもなく、先生にお礼がしたいとそう思ってるのですよ。 不思議なことに。 

 

学問が好きになるかどうか、学問とどう接するかは、こんなふうに、いろんな偶然が関係してるのですよ。 あとね、この問題は、学校に所属している間だけでなく、人生全体の時間軸で考えないといけないのかもしれません。 受験勉強とはまったく違う感覚で、ね。

不思議なことがいろいろ起きるのが、人生なのだ。

 

*****

 

春。

新入生だけでなく、学生の皆さんすべて、頑張って勉強しなさいよ。 社会人も同様。 しっかり勉強してください。 ただ漫然と会社やお役所の仕事をしてるだけでは、あなたの目の前のその辺のおじさん・おばさんにしかなれないのよ。 その人たちはむろん立派で尊敬しうる人たちだと思うけど、あなたが10年後、20年後、30年後に「そうありたい」と思える人たちですか?

 

共にがんばろうね。

 

*****

 

・・・ と教師としてのカラ元気をふるっていたら、またこの春の心の傷が少し痛み始めたよ。 治るのはいつのことだろう。 ふー。 ため息が止まらんなぁ。

どなたか心優しい方がいたら、コージーコーナーか不二家のイチゴショートかモンブランをぜひ ・・・

 

気が滅入ってるくせにややこしいことを書かない

 

そういえば、村上春樹の「風の歌に聴け」のお話の真ん中あたりに、こんなエピソードがあったことをふと思い出したのである。

 

僕がある日スーパーマーケットから食料品の袋をかかえて戻ってみると、彼女の姿は消えていた。彼女の白いバッグも消えていた。 ・・・ 机の上には書き置きらしいノートの切れ端があり、そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。 おそらく僕のことなのだろう。

 

村上春樹風の歌を聴け」 

 

自分は今後の人生で、いったいあと何人から「嫌な奴」 と思われるのだろう。 数えるのがしんどくなってきた。 カチンと乾いた音がしてカウンターが一つ進んだ2023年の春。 

 

*****

 

「嫌な奴」 認定されるのを恐れていたら、誰のことも手助けできない ・・・ と元気なときの自分は考えられる。 でも今はその元気が不足している感じ。 うーむ。

 

この春、「人間っていくつもの顔を持ってるんだよなぁ」 ということを学び、素直な思いを伝えることの難しさ、人を信じ切ることの難しさを、痛感したサル的なヒト。 小栗旬も飲んでいる(はずの)大正漢方胃腸薬が手放せぬが、まぁなんとかやってます。

皆さんはお元気?

 

少し前に閉店した東急本店、先週からビルのまわりに工事用の白い塀が立ち始めた。 これから何年もかけてデカいビルに生まれ変わって、渋谷の街の表情をまた変えていくのだろう。 でもたぶん、生まれ変わったその場所には、私のような貧乏なおっさん (東急本店のデパ地下で150円のコロッケを 3個ほど買って帰るのが楽しみだった) の居場所はなかろう。 それはそれで一向にかまわんが。

 

で、その渋谷界隈。 用事があって時々通り抜ける繁華街のビルの地下一階に「クラブ」とやらが出来たらしいのである。 入口のところに黒い服を着たにいちゃんが立っている。 時々大音量の音楽が漏れ聞こえる。 むろん僕のようなパンピーのおっさんが入れる店ではないから、ただ前を通り過ぎていたのだが、昨晩、こんな看板が出ていたのである。

 

「外人のお客さんは無料とさせていただきます」

(・・・と日本語で書いてある(笑))

 

・・・。

意味が分からない。 いや、意味は分かるのだが、やはり意味が分からない。 いろんな意味で。 

ここで入店が期待されている「外人」 って、ほれ、たぶんああいう外見の外人なんだろうね。 僕なんかは国籍が仮に日本ではなくても、顔のつくり的にダメなんだよね(笑)。

WBCとかで 「ニポン万歳!」 と大騒ぎしてるニポンだが、この地に住む土着の人たちメンタリティは、米兵にぶら下がっていた1945年頃とあまり変わってないのね。 あれから 80年近く経つのに。 英語ができれば上級国民様になれると勘違いしてる阿呆人たちが未だに私の周囲(大学内)にもたくさんいるし(こういう連中には「十分条件と必要条件は違うのよ」などと語っても理解できない)。 ニポン人ってずっとこんなふうなままで、22世紀に突入したりするのだろうかね。 今からもう一世代か二世代を経ないとこの国はダメな気がしてきた。

 

*****

 

新年度の講義の準備をしながら、例によって、薬効評価の神事性について考え続けているのである。 きちんとした理屈があるようで実はまったく無いのが、ちょっと惨めな今の医薬品評価科学なのだが、「理屈が無い」 ことを分かりやすく説明することは結構難しいのである。 

私が「理屈が無い」 などと言うと、すぐにカッカしながら  「いや、相当にややこしい理屈があるでしょ。 統計学とか、臨床試験という科学的な営みの体系とか。 小野さんはそうした科学を無視するの?」 などと反論してくる純情刑事のような方が現れるから面倒臭いのよ。 面倒臭いことは避けたい。

 

私が言ってるのは、「目的を達成するための 『理屈』 がない」 ってこと。 「薬が効く」 を哲学的に十分に深く考えるための理屈がない、ってこと。

 

このあたりの状況、最近はこんなふうに論理学の概念を援用して説明するようにしてる。

 

今の医薬品評価には構文論(syntax. 証明手続き)はあるが、意味論(semantics. 「薬が効く」の定義)が無い。

 

どう、すっきりしてて分かりやすいでしょ? ・・・ なに? 何が言いたいのか余計に分からなくなった?

分かりやすく言うと、「有効性(や安全性)」なるものを一定のルールに従って構築したり、推論したりする仕組みはあるけど、その「有効性」 なるものがそもそもどういう事態(あるいは出来事の成立)のときに成り立っているのか(逆に成り立っていないのか)をこれまで誰も定義として決めていない、ってこと。(注 1)

(注 1)論理学が分かってる人向けに言うと「真理値表がない」ってこと。 

 

おそろしいでしょ?

「有効性」 の定義がなくても、それを一連の手続きで構築(証明)できたような顔をしていれば、世の中的にはそれでいいんじゃないの? と思われる方がいるかもしれぬ。 が、それではやはりダメなのですよ。 なぜなら、私たちはその一連の手続きなるものの妥当性や性能を論じる必要があるでしょ? そのためには、動かない・固定された「有効性」の定義が絶対に必要なのよ。 当然の話だけど。(注 2)

(注 2) これも論理学の概念で言うと「意味論がないと構文論(という手続きの体系)の完全性や健全性が論じられない」 ってこと。

 

医薬品評価のこうした悲惨な状況を背景として、皆が三者三様どころか百者百様に「この手続きをもって『薬が効いた』こととする」 と勝手に宣言しまくるという現実が生じているように私には見える。 ほれ、最近では、ゾコーバだのレカネマブだのを評価していたあの人たち(賛成派も反対派も)の振る舞いですよ。

 

どうですかね。 たとえ話としては結構いけていると思うのだけど。

 

このあたり、大学や無料出張講義ではもう少しきちんと説明しています。 興味のある人は大学院やレギュラーコースの講義にこっそり潜り込んで聞いてね (笑)。 いや、そろそろ無料出張講義を再開した方がよいのか ・・・ どうやって再開するかを考えてますので待っててください。(注 3)

(注 3) お詫びです。 計画して、受講生まで募集したのに、実施できていない(延期され続けている)無料出張講義があるのです。 コロナがらみの大学のドタバタでタイミングがうまくいきませんでした。 手を挙げて頂いた方々、ごめんなさい。 どうやって再開するかを考えているところです。

 

*****

 

最近読んだ本。 

 

母国ポーランドのためにアウシュビッツにわざと入り、3年間生き延び、内部から様々な報告を行ったヴィトルト・ピレツキ氏のお話。 むろんノンフィクション。 内容が濃厚で、読んでると息が苦しくなる。

しかし彼の活躍は単純な英雄譚にはならないのである。 連合国も母国ポーランドも彼の報告を無視。 最後は、彼の愛する母国で、戦後の共産党傀儡政権によって逮捕され、銃殺された。 

ウクライナで起きていることを他人事と思ってはいけない。 歴史は何度でも繰り返すのである。

 

 

フリーレンの最新刊は心に沁みますよ。 すべてを黄金に変えてしまう魔族、黄金郷のマハトが、人間にはあるけど魔族にはない感情、「正義感」「悪意」「罪悪感」 にマハトがなぜか引っかかりを覚え ・・ というお話。

魔族と人間の心の違いとして話は進むが、読者の心がザワザワするのは、むしろフツーに 「人と人は心が通じ合えるわけではない」 という残念な真理を描いているからだよね。  「これまで同族だと思ってたのに、この人には、今私の心にある『これ』と同じ感情(共感)が無いんだ・・・」とがっかりした経験には事欠かないだけに、私の心に突き刺さったのである。 

あとね、このお話って、鬼滅の刃の上弦の壱、「黒死牟」のエピソードとなんだかとても重なっている気がするのである。 鬼滅の刃で私が最も涙したエピソード。(→ これね。

外に出て人の匂いを嗅ごう。ニャンコとも話そう - 小野俊介 サル的日記

 

「私は一体何のために生まれてきたのだ 教えてくれ 縁壱 ・・・」 と呟きながら天に滅せられた黒死牟。

フリーレンの方はこれから一体どういう展開になるのか、ドキドキする。

 

*****

 

風の歌を聴け」 にはこんなくだりもあったっけ。 女の子とヨリを戻す場面。

 

彼女はしばらく黙った。

 

「今夜会えるかしら。」

「いいよ。」

「8時にジェイズ・バーで。いい?」

「わかった。」

「・・・ ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」

「わかるよ。」

「ありがとう。」

 

彼女は電話を切った。

 

村上春樹風の歌を聴け

 

こんなふうに何も語らずに、語らなかったことが通じ合う人間関係にあこがれてしまう。 バカげているとは分かっているが、こういう友人や相棒が傍らにいてくれることを夢想してしまう。 そしてため息。

 

*****

 

夜の空気が生暖かくなってきた。 大学の構内を走るのも楽になってきましたよ。

毎晩、三四郎池のほとりで人生の虚しさについてうつらうつらと思いめぐらせています。 そのうちに、昔からこの池に住む河童にさらわれて、尻子玉を抜かれるかもしれんので、後のことはよろしく。

じゃまたね。 

 

ココロが通じ合わない春

読者の皆さんへ

 

思うところあり、今回の記事はすべて削除いたします。

「自分は悪くない。 悪いのは『自分以外の誰か』 なのだ」 といった記事のトーンは、私の信条に照らしても、とても恥ずかしいものでした。

哀しいことに世の中は、他人の悪口ばかり言っている人たち、相手によって言うことを変え、嘘をつく人たちで溢れかえっています。 他人の粗(あら)探しをして、相対的な優越感に浸りたくなる誘惑が世の中には満ち満ちています。スタバなんかでの茶飲み話はそれでOKなのかもしれない。 が、このブログでそれをやる気はありません。 ダメです。 それは「サル的日記」の基本姿勢に反してます。 すまんかった。

 

「サル的日記」の基本姿勢は「なぜか道端に開いてた大きな穴に落ちてしまっている間抜けなサルが自分自身を嗤う」 である。 暗い穴の底からお空を見上げているのはいつだって自分自身でないといけない。 自分が落とし穴掘って、誰かを落とそうとするなんてありえない、って話。

 

私がなんだかとても気が滅入る経験をしたことを感じ取ってくださり、励ましの電話やメールをくださったブログ読者・無料出張講義の受講生の方々、本当にありがとう。 「あんたさ、雨も止んだから花見に行って来いよ」 のメール、うれしくて涙が出ましたよ。 ブログ書いてて良かったです。

 

年齢を重ねると、他人の欠点がすぐに見えるようになります。 だけどね、年齢を重ねたからこそ、僕たちは、そんな欠点なんぞ承知の上で、「しょうがねーなぁ、この人は・・」と苦笑いしつつ、欠点付きの人をありのままで受け容れる度量を持たないといけないのだろうと思います。 あーあ。 この年になってまだそれができぬ自分が不甲斐なく、情けない。

 

情けなくて、みゆきさんの歌をずっと聞いているのは事実なので、以下は残します。

 

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そういうわけで、毎日毎日、朝から晩まで、こんなのを聴いている。

 

泣きたい夜にひとりでいると なおさらに泣けてくる

泣きたい夜にひとりはいけない 誰かのそばにおいで

ひとりで泣くと なんだか自分だけ いけなく見えすぎる

冗談じゃないわ 世の中誰も皆 同じくらい悪い

 


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あんたにはもう 逢えないと思ったから

あたしはすっかり やけを起こして

いくつも恋を渡り歩いた

そのたびに心は惨めになったけれど

 

流れの中で 今はただ 祈るほかはない

あんたがあたしを こんなに変わったあたしを

二度と見つけやしないように

 

時は流れて 時は流れて

そうしてあたしは 変わってしまった

時は流れて 時は流れて

そうしてあたしは あんたに 逢えない・・・

 


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春が来たよ。

風向きも変わってくれるといいなぁ。

心の温かい人たちと、心穏やかに、春の訪れを語り合えるといいなぁ。

 

じゃまたね。 元気を取り戻して、次回。